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~ナザレのイエス~

『死・我』に告げる

あのお方さんの3/24OP後のコメント、最後の文にこうありました。

『セッションで言われたことでメモ書きを見つけました。(目にとまっていなかったのです。)
エスさまは、あるときこの者は知らないといわれたことがある。
とおぞうたまからお聞きしていました。』


おぞうたまからお聞きしたことを少し補足させていただきます。


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●マタイによる福音書7章(21・23)

21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、
ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

23 そしてそのとき、彼らに対してわたしは告げるであろう、
『汝らのことなど知らぬ。わたしから離れ去れ、不法を働く者どもよ』と。
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あのお方さんにおぞうたまが話されたことは、
このことをおっしゃっていたのではないでしょうか。

全文はこうあります。

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●マタイによる福音書7章(21-29)

21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、
ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

22 その日には、多くの者が、
わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。
また、あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

23 そしてそのとき、彼らに対してわたしは告げるであろう、
『汝らのことなど知らぬ。わたしから離れ去れ、不法を働く者どもよ』と。

24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。

25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。
岩を土台としているからである。

26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、
砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。

27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。
そしてその倒れ方はひどいのである」。

28 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。

29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
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文中にある“岩”とは愛する者たちがもたらす場のことである。
とおぞうたまはおっしゃいます。

”岩”とは、アラム語で”ぺテロ”と言う言葉と類似しており、
その弟子ペテロとイエスさまのやりとりを使徒ヨハネは残しています。

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ヨハネによる福音書21章(15-17)

15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、
ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、
エスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

16 二度目にイエスは言われた。
ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、
エスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

17 三度目にイエスは言われた。
ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。
そして言った。
「主よ、あなたは何もかもご存じです。
わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
エスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
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ここで言われた『この人たち以上に』は、次元の違いを意味しており、
『わたしを愛しているか。』の愛は、人間次元の愛ではなく、
ナザレのイエスさまからくる愛のことです。

「わたしを愛しているか。」三度問いかけたナザレのイエスさま、
そして「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えるペテロ。
三度目には悲しくなったペテロ。
そして「わたしの羊を飼いなさい。」とおっしゃられるナザレのイエスさま。

この掛け合いのような会話は、
”わたしをわたしが愛するように愛しているのなら、わたしの羊を飼いなさい。”
ナザレのイエスさまはおっしゃっておられるのです。

ここから学ぶのは、まずイエスさまが愛しておられるように愛すること。
それができて初めて、この道の羊飼いとして羊のお世話をする者となるということです。

そして、もう一つ。。。
悲しくなったのは、もちろん何度も問われることで悲しくなったペテロの心情ではありますが、
この悲しみは、このことが真に分かることがないこの世の者たちの悲しみでもあると思うのです。

 

先のマタイの聖句に戻ります。


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●マタイによる福音書7章(24-25)

24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。

25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。
岩を土台としているからである。
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ここにある”岩”は、愛する者たちがもたらす場。

愛する者であろうとするのなら、
ペテロにおっしゃった「わたしを(わたしが愛するように)愛しているか。」

まず、これが自分に問われなくてはならない。
愛するのなら、互いに愛し合うのです。

”互いに愛し合う”
このとき、その場は”岩”であり、その上に建てた家は、

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25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。
岩を土台としているからである。
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となるのです。

 

そこで、あのお方がおぞうたまから聞かれたメモ書き、
『イエスさまは、あるときこの者は知らないといわれたことがある。』
に移ります。

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●マタイによる福音書7章(21・23)

21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、
ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

23 そしてそのとき、彼らに対してわたしは告げるであろう、
『汝らのことなど知らぬ。わたしから離れ去れ、不法を働く者どもよ』と。
ーーーーーー

ここにある『天にいますわが父の御旨を行う者』を、
おぞうたまは互いに愛し合う者のことだとおっしゃられます。

それは自分のことしか頭にない我意ではない。
そういう者のことを

『汝らのことなど知らぬ。わたしから離れ去れ、不法を働く者どもよ』
とはっきりナザレのイエスさまはおっしゃったと言うのです。

激しい言葉です。しかし、それが真実なのです。

この道を歩む者同士が互いにナザレのイエスさまの愛で結ばれていなければ、
その家はもろく崩れてしまうのです。

それが、その後に続く言葉として表されています。
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●マタイによる福音書7章(26-27)

26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、
砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。

27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。
そしてその倒れ方はひどいのである」。
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ゆえに、あのお方さんのメモ書き
『イエスさまは、あるときこの者は知らないといわれたことがある。』なのです。

以上になります。


では、なぜあのお方さんに、このことをおぞうたまは話されたのでしょう?
もう4月7日までのOPしか参加できない旨をおっしゃられた折に話されたとのこと。

よほどのことがこの話に込められていることがよく分かります。

それが『セッションで言われたことでメモ書きを見つけました。(目にとまっていなかったのです。)
エスさまは、あるときこの者は知らないといわれたことがある。
とおぞうたまからお聞きしていました。』

これだけの文章で、皆さんの目に入ったことが残念でなりません。


あのお方さん。

皆さんのお役に立ちたいということをどう捉えていらっしゃるのですか?

皆さんであのお方さんのことも話されていたであろうOP後のシェア。

そのOPシェアの最後に、このような書き方で終わらせてしまうのは、
あんまりではありませんか?あまりにも不親切です。

最後の3行に関して、おぞうたまは何を話され、あのお方さんがどう思ったのか、
私は全く分からなかったです。

書くことが苦手だから、あのような文章になったと自分をそこに置き続ける、
またそれを見てもそのままに放置するのなら、その人はこの道を歩む者ではありません。

読む仲間がいることを知り、その人たちに”伝えよう”という気持ち、
”皆の役に立とう”という気持ちは、行うことで分かるのだと思います。

行いは、自分のできることだけをして、
これをしたから皆の役に立っていると思うことでは全くありません。

役に立つことは、相手への愛ではないですか?
そこから自然と湧いてくる行いが、即それではないのですか?

さらに、おぞうたまの話を聴くことは、
自分を開き、おぞうたまの息吹を身にいれることです。

おぞうたまが話されたことで、分からないことがあればさらにお聞きして、
分かるまで閉じずにジッと開き続けながら、問い、聴く。
そして、分かったことや経験を皆とシェアしあう。

ここをそんな場に、シェアする私たちがそんなお互いであればと思うのです。

 

先ほどのマタイの聖句で、イエスさまは”多くの者”のことにふれています。
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22 その日には、多くの者が、
わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。
また、あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
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これは、自分が何をしたか、自分がやったことに囚われている人たちのことだと思います。

その多くの者に対して、

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23 そしてそのとき、彼らに対してわたしは告げるであろう、
『汝らのことなど知らぬ。わたしから離れ去れ、不法を働く者どもよ』と。
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そう彼はおっしゃられた。

 

自分のみ、我のみ、であることをこの世はなんとも思いません。
自分がそうであることに気づきもしないのが通常です。

それどころか、何かをしてあげたことを役に立っていることだと、
それのみに固執する傲慢な者が大半なのです。

そういう者同士でこの世は作られているのですから、
それがあたりまえのこととして、あるいは美徳として、死ぬまで放置されるのです。


けれど、この道では違う。

おぞうたまはハッキリと指摘されます。
ナザレのイエスさまの『わたしのこれらの言葉を聞いて行うもの』は、
彼のおっしゃることを、まさに行なうのです。

ナザレのイエスさまが私を愛してくださるようにナザレのイエスさまを愛する。
そして、その者たちが互いに互いを愛する。
それがこの道の土台であり、それが”岩”です。

そして、『わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者』
その者はここにいることを許されないと、ナザレのイエスさまはおっしゃるのです。

 

最後におぞうたまが教えてくださった聖句とお言葉を皆さんにシェアしたいと思います。
私はこの掟こそが、この道の要だと思っています。

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ヨハネによる福音書 13章(34-35)

34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。』
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「掟とは、”一番大切なこと” ”決して忘れてはならないこと”。
愛はナザレのイエスさまから来る。
この愛は、ただの愛ではない。まさに最上階、至上の愛のことだ。」
(おぞうたまより)