peer

~ナザレのイエス~

マタイ25章より

「聖書にこんな言葉がある。」おぞうたまがおっしゃった。

マタイ25章~~~~~~~~~~~~~~~
あなたがたは、わたしが空腹のとき食べさせ、かわいていたときに飲ませ、
旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、
獄にいたときに尋ねてくれたからである。
そのとき、正しい者たちは言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、
あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は応えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。
わたしの兄弟であるこれらのもっとも小さい者のひとりにしたのは、
すなわち、わたしにしたことである』。~~~~~~~~~~~~~~~」

おぞうたまは続けてこうおっしゃった。
「『本当に謙虚な人というのは、自分が謙虚であることを知らず、愛がその人を動かす。』
ということをおっしゃっておられるのだよ。
謙虚さは、愛がはたらく空間、愛がその人に代わって動き出す透明さなのだ。」

スラスラっと話された言葉。最初の聖句とおぞうたまのおっしゃることが重ならなかった。

私は”小さい者”という言葉、そのあたりを聞き逃したのかもしれないと思い、
「すみません、もう一度小さい者のところを言っていただけませんか?」
とおぞうたまにお願いした。

おぞうたまはもう一度聴かせてくださった。

『あなたがたによく言っておく。
わたしの兄弟であるこれらのもっとも小さい者のひとりにしたのは、
すなわち、わたしにしたことである』

妙に惹きつけられる言葉だ。

「小さい者とは何ですか?」
「弱き者、それからグレースたちのような人間以外の生き物たち。」

聴いた途端、涙がジワっとにじんだ。なんだか分からない涙だった。


おぞうたまは実際にこの言葉を読むことを促してくださった。

じっくりと読み返す。。。

先ほどのおぞうたまの言葉
「『本当に謙虚な人というのは、自分が謙虚であることを知らず、愛がその人を動かす。』
この言葉と共に。


・・・驚いた。

これが謙虚さを語っている?!改めてその意外さを認識した。
私が一人で読んでいたら、この言葉からそれを汲み取ることは全くできなかっただろう。
おぞうたまはこれからなぜ謙虚さを語っていると知ることができたのだろう?


私がこの聖句を言葉そのままで解釈しようとするとこうなる。

エスさまは今まで一度も空腹だったり、かわいていたり、
裸であったり、病気だったりしたことはないのだから、
~『主よ、いつ、わたしたちは、
あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
と聞き返すのは当たり前ではないか?と思ってしまう。
なので、『正しい者』というくだりが意味不明のままだ。

そして、そこからの、
~すると、王は応えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。
わたしの兄弟であるこれらのもっとも小さい者のひとりにしたのは、
すなわち、わたしにしたことである』の言葉だけが、浮いてしまうのだ。

それでも悪いことに、だいたいの言いたいことはボンヤリ理解できてしまう。

あぁ。。。誰にでも何にでも親切にしなさいという教訓だ、となる。
それで終わり。頭だけが納得する。それしかないのだろう。

しかし、今現にあるこの理解、体験は違う。明らかに違う。
これは教訓なんかじゃない。おぞうたまのおっしゃる通り、謙虚さのことが語られている。
私にいつの間にかナザレのイエスさまがおっしゃったことが伝わっていた。

私はこのことが、この違いが、ありえない凄いことだと感じた。
それは一種のショックだ。

おぞうたまは、さらにもう一つ教えてくださった。

「彼は他者という観念を持たない。すべてがわたしなのだ。
だから『わたしの兄弟であるこれらのもっとも小さい者のひとりにしたのは、
すなわち、わたしにしたことである』とおっしゃる」

あぁ。。。それは彼の真実だ。だからなんだ、だからこうおっしゃったんだ。。。
私の頭では到底及ばない、彼の語り。。。こうして聴くことが出来ている。
おぞうたまが語るとき、私は彼からの言葉を理解する。

おぞうたまは意味だけを語ることはされない。
いつも光を届けながら、その真意だけを伝えようとしてくださっている。
そして、その伝え方はこれ以上ないぐらい的確だ。

おぞうたまがいてくださること、こうして教えてくださることがどれほど凄いことか!
ありえない程に幸運なことだ!
今まで当たり前に受けていた恩恵。。。私は今になって初めて、今さらに気づいたのだ。

もうイエスさまに、おぞうたまに、感謝せずにはいられなかった。

感激のあまり「おぞうたまがいて下さって本当に良かったです。
私では一生触れることができないことを教えてくださって、本当にありがとうございます。。。」
とかしこまってお礼を言うと、おぞうたまは優しい笑顔を見せて下さった。
まるでイエスさまがそこでそのまま笑って下さっているようだと心がほだされた。


おぞうたまは最後におっしゃった。
観念だけにならないように。。。そのための一押しだったのだろうと思う。
このことは私の胸奥に深く刻まれた。

「『彼は他者という観念を持たない。すべてがわたしなのだ。』
これを彼は、現に“体験”しておられたことを知っておくといい。」

つまり、彼は事実、小さい者たちに施されたすべての喜び、苦しみを体験された。
本当に、彼に他者はありえないのだ。
その者の痛みと、喜びを直に感じておられるとおっしゃるのだ。

なんてことだ、一体、どんな境地でそのように感じることができるのだろう。。。
彼はどこまでも高い。。。

この世の者に彼の境地を推し量ることはできない。
彼は私たちこの世の者が生きているところをはるかに凌駕したところで存在しておられる。


改めて、彼の語る言葉の不思議さに感じ入った。
彼の言葉は聞く人によって、まったく違う言葉に聞こえる。

そして、彼の言葉は通りいっぺんではない、何かが多重に含まれている。
それはきっと、これを書いたマタイも知らないことがあるに違いない。

おぞうたまはおっしゃった。
「彼は詩人だ。」

読むことができる者には、それが与えられる。
いや、それぞれに与えられるものだけが与えられるのだ。
それはきっと、人によってそれぞれ違う。

先ほどの聖句。
読めば読むほどに震え、次から次へと涙がこぼれる。
何かに打たれ、全身が何かに共鳴している。

一向に勝手に流れる涙のワケは分からない。

言葉それそのものの意味ではない。何かが直に迫ってくる。
彼のおっしゃられることが、複雑に幾重にも重なって鳴り止むことなく響いていた。

けれど私はそれを言葉にすることができない。きっと彼でなければ分からないのだ。。。
私は自分の解釈でなく、彼が何を伝えようとしているのか、それだけを知りたい。

何度祈ったか分からない、ナザレのイエスさまへの祈り。

ナザレのイエスさま、
あなたの語っている通りに聴くことができるようにしてください。
あなたから与えられたものを正しく聴きとることができるよう、
どうか聴く耳をお与えください。。。アーメン。