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~ナザレのイエス~

レンマ

蛸(たこ)は8本の腕に脳が供えられている。

この軟体動物は、その腕が触れた瞬時にその腕から擬態を始める。

それはまるで魔法だ。

みるみると全身を変化させ、次の瞬間もう周りの色に溶け込んで姿は見えない。

そこに時間は介在されない。

時間のない姿を見せる蛸。

蛸は、レンマ的知性の象徴である。



エスさまの癒しは瞬時に起きる。

エスさまが「立って歩きなさい」とおっしゃれば、病人もスッと立って歩く。
「汝の病は癒された」とおっしゃれば、即、病は消えたのだ。

エスさまの癒しに時間は介在しない。


こういったことを聴いている今もレンマ的思考に留まるようにと
おぞうたまはおっしゃる。

おぞうたまの話される言葉、私の話し出す話題、すべてが全体としてそこにある。


私は今、時間の世界に生きている。

そんな私がレンマ的に思考するとは?

全体を全体として把握する。
全体を包含し、その真理に深くスーッと入っていく。

いろいろなサインとサインが理解を促すと同時に、
サインとサインが理解によって色濃く映し出されていく過程は、レンマ的思考の表れの一つだ。

それだけでなく、そこに留まれば、理解からさらに大きな理解へと導かれ続ける。

いつしか、理解し続ける生き方にシフトする。


一方で、理解せずにいれば、サインは自ずと激しさを増してくる。

始めのサイン、娘はイヤホンの片方をなくしたり、
折り返すには終電のない時間、場所まで寝過ごした。

そして、また出来事は起きた。

娘は定期テストの日に寝坊して、遅刻は免れない状況になってしまった。

娘は大慌てで、差していた傘を駅構内の改札口まで差したまま歩いて、
気がついて恥ずかしくて苦笑いするしかなかったというほど気が動転していた。

本来なら、遅刻でテストは受けられないのだが、
乗り換えの電車が強風で遅延しており、その遅延届けのおかげで娘は30分遅刻でも
テストを受けることができた。

大事な時に寝ているというサインが、段々に強調されている。。。

同じ日、長男の財布が一時無くなって、大騒ぎだった、後に見つかった。
大事なものをなくしているというサイン。

その時のサインは、その二つだった。

よし、目覚めて大切なことを見失わないようにしようと理解した。


しかし、別の日。

今度は長男が卒業のかかったこの時期に大寝坊をした。
なんでも今日授業に出なかったら、単位を落としてしまうらしい。

つまり、卒業できないということだ。
娘の定期テストが受けられないどころの話ではない。
卒業できなければ、せっかく決まった就職も取り消しだ。

今から電車とバスでは到底間に合わない。。。
お母さん、悪いんだけど、車出せる?と珍しく私を頼ってきた。

ところが私もその日は仕事で、長男を大学まで送迎していたら、
遅刻は必須になる。

私が咄嗟に出た行動は、長男を送ることだった。

とにかく、今はコッチだ。それしかない。

結局、長男は1時間もの遅刻。
なんとか授業終了30分前で教室に入り、教授のご好意により、
首の皮一枚卒業に繋がった。

もし来なかったら、どうしようもなかったと言われたそうだ。

私は25分遅刻の出社となったが、それほど問題もなく終わった。

あぁ、よかった。。。

それにしても、こんなことが立て続けに起きるなんて、まだ理解が足りなかったのだ。

おぞうたまに促されて、思考する。

卒業・・・
大事な時に寝坊する;・・・

目覚めて、大事なことを忘れないだけじゃダメなのか・・・?
う~~ん、まったく理解できない・・・


「あなたにとって、卒業とは?何に卒業するのですか?」

おぞうたまの問いかけに「この世です。」と、すかさず応える。

この世の卒業の為の課題が残っている。
この課題は何だろう?

課題、課題・・・


光に留まるのは、私の課題であることは知っていても、
なかなか出来ない。

なんせ、すぐに眠りこけてしまうのだ。
現実の世界にリアルを感じ、そちらにキューッと入り込む。
光りなどは、どこにも無くなってしまう。

私はまだ自分の力を信じている。
なにか出来るんじゃないか?私がやらなきゃいけないことじゃないのかな?
手助けしなきゃ。口出し、手出し、誘惑に駆られ、私はすること(doing)をしてしまう。
そして、私がしたから、事は大事に至らずに済んだのだと錯覚している。

しかし、この道は、することではなく、あること(being)。

サレンダー、そうでありますように。。。御心のままに。。。
この状態でいること。

私がどれだけ頑張ってもシナリオは決まっていて、
それに動かされているだけの私は、この世の私。
しても、しなくても、シナリオ通り。

しかし、イエスさまの道は、この世のシナリオにはない未知の道。

この世からの卒業は、もうシナリオもなく、時間も介在しなくなるということ。

卒業したら、この世では、何も起きなくなるんだ。

理解は次々に展開し、サインの数々からこの理解へと導かれた。


そもそも、サインがなければ、今の私は一歩もこの世から抜け出そうとはしないだろう。

物は豊かに溢れ、住む家はあり、子どもらも猫もいる。
大きな病気もない。

最終の死を見ないで生きれば、これでいいのだ。これで十分。

しかし、この世では死に抗うことはできない。
愛する家族、大事な存在たちも、間違いなく死ぬ。

この道はイエスさまの道は、死のない、神の国への移行だ。

悩みや問題はあれ、大事にしているものがありすぎるこの世。

大事な子や友人、生き物たちをこの世に置いて、私はここからの卒業を望むのか?と
ふと立ち返る。

ならば、いっそこの道を止めて、みんなと一緒に死ぬという考えに流れる。
時間の中で、頭が流れるのはコッチだ。

頭を離れる。
愛の空間に入り、思考する。

仮に、私が卒業課題をクリアして、スタコラサッサと、神の国へと移行する。

いや、いや、トンデモナイ。。。置いてはいけない。

エスさまの道は、まさに大事なすべてと共に、である。

誰一人、欠かすことなく、神の国へと移動する。

エスさまは、彼の分身である仲間のためにこの世に来たとお聴きした言葉が、
私サイズでリンクする。

レンマ的思考は、よりナザレのイエスさまの道の真理を理解する。

理解する毎に、サインは起きなくなる。

いや、自らの居場所が変化するんだ。


目にする、耳にする出来事が、サインであることを直感するのは、
このレンマ的な思考に開かれているからだ。

常に目覚めていること。

眠っていることとは、ひとつの出来事を、ぶつ切りに捉え、
ひとつが終われば、忘れ、また別のことに囚われる。
その繰り返しをすることだ。



最近のサインの中にこんなことがあった。

私は自家用車に、免許取り立ての子どもらのために初心者マークをつけていた。

3~4ヶ月経ったところで、初心者マークを一度はがしたら、
ブクブクと水ぶくれになっている。

何これ?!と水ぶくれを潰そうとしたら、あっけなく、クリア層がペラペラ剥がれてしまった。

思えば、これもサイン。理解を求められていた。

私は初心者マークでこの世のあぶくのように出来るものに、
右往左往翻弄されて生きるのは真っ平ゴメンだ。

しかし、この道に乗ってさえいれば、
次々と起きる事象は、イエスさまと聖霊によって計らわれている。

シナリオは書き換えられている。
いや、イエスさまのシナリオ、この世のシナリオ、どちらであっても構わないのだ。

シナリオ(個々の出来事)に乗らず、理解し続け、
次はどんなシナリオを見せて下さるのだろうかと、
何が起きても心配はいらない境地(静寂)へと
訓練(現象の下に立って理解する:アンダースタンド)され続ける。

見る方向は光り、生命。

私のハンドルを手放そう。

向かう先さえピタリと見据えていれば、
あとは自然にそちらに向かっていくのに任せるだけだ。