peer

~ナザレのイエス~

『第四階層』

今、大きな飛躍が求められている

目覚めていなさい



~あなたに与えられるものは、すべてわたしの愛だ、それしかない、受け取りなさい~

おぞうたまの額の奥の光りに留まり受け取ったその愛は、
私が思っている愛、求めている愛より、はるかに強く壮大だ。

一瞬にして毛穴が広がり、身体が溶け出す。

私の目から涙がボロボロと溢れた。



一ヶ月も前だろうか、娘がポツリとこんなことを言った。

「お父さんが生きていたら、私を愛してくれているだろうか?」


娘が問いかけたこの問いは、
私が無意識にずっとイエスさまに問い続けていたのだと、
応えが与えられたその瞬間に分かった。



娘は私の世界にサインをもたらしてくれる。

先日、娘は電車で寝過ごして、引き返すには終電もなく、
真夜中に車で片道30分ほどの隣りの市まで迎えに行く事態が二日続けて起きた。

そして、イヤホンを片方だけ失くすことが続けて起きた。
一度目は、一度はなくなったものの、後で見つかり、後日また片方失くしたのだ。

二度も起きたこのことは明らかに私へのサインであるが、
そのことに気づいたのは、セッションでおぞうたまにこのことを話した時だった。

それまでサインだと気づかずにいた私は眠っていたのだ。

今回のサイン。

一つは文字通り、大事な時に寝過ごしていること、
もう一つは、聞く耳が片方抜け落ちているということだ。

なぜ、このサインが今、私に与えられたのか?

私の課題、それは”死”である。
と同時に、ルンが残してくれた課題がある。

それはルンが生きていたときにあれほどまで私を愛してくれていたことに、
私はこの世であの子を失ってから気づいた。

生きている間に気づき、愛に応える。
これが私の課題だ。

生きている間に・・・
これはこの世を私自身が離れる前に、この世に愛を返していくことでもある。

おぞうたまが統合したら、それがくる。

今生にすべてがある。
線形ではなく、今生を円の中心と捉える。

この地上を離れる前にすべての恩を返す。
身体にも、人にも、過去にも、記憶にも。


聖霊がこの世で沢山のサインを与えてくれる。
この愛に応える。

サインは良いこととしても悪いこととしても現れる。
けれど、そのすべてはイエスさまの愛だ。



静寂はこの世に満ちている。
そして、そこに愛が舞い降りる。

この愛は私を光りへ誘い、光はいつしかこの世に満ちる。
そこに私が生きるのなら、この世は光りと愛で満たされる。

ヒーリングは、自ずと起きる。
それが、この世でできる私の唯一の恩返しだ。

しかし、ここまではこの世のこと。
この静寂も愛も光りも、この世なのだ。


第三階層。

人々はこれでいいじゃないか?と思うだろう。
これ以上何を求めるのか?と。


いや、第四階層がある。
それはこの世ではない。イエスさまのおられる国だ。

では、そこは?
第四階層は、どこにある?

『騒ぎ立てたり揺り動かしたりしないでください、愛が目覚めたいと思う時まで・・・』(雅歌)

私たちは愛が目覚めるまで進めない。。。

けれどおぞうたまは、この言葉を踏まえた上で、あえて伝えてくださった。

「愛が目覚め、この地上を離れたとき、現れるそこはもうこの世ではない、神の国だ。
この道を歩むものは、そこを目指す。」



おぞうたまは一つひとつ丁寧に説明してくださった。

この世とは、一本の横に引いた線。
そこはすべてが決まっている。何もかもだ。

誰かにプレゼントをしたとしよう、それも決まっている。
そして、それを受け取った相手の反応までも決まっているのだ。
そこに自由意志はない。

一本の何もかもが決められている横に描かれた線の上を歩くだけだ。

聖霊から与えられるサインも、その線の上で歩んでいる時、
個々の出来事がその時だけに現れ、そのまま消えていく。

いいことは、ラッキーが訪れたと喜び、
悪いことは、これが悪かったからだと考えあぐねるものの、
どうすることも出来ず、過ぎ去るのを待つだけだ。

人々は感情だけを喚起し、また次のシナリオへと向かう。
そこには、なんの神秘も感謝もない。

これは第一階層。


次に第二階層がある。

すべてが決まっている第一階層ではいいことも悪いことも日々起きる。
何もない日であっても人々はより幸せを望み続ける。

それゆえに、人々は苦悩する。
その苦悩は、履き違えられたままだ。
目の前の叶わない何かを追い求め、それが叶わないからだと、その思いに苦悩する。

目標を決め、それに向かって生きること。
それこそが生きることだと、現代人は何の疑問もなく思っているが、
昔の人間はそんな生き方している人いなかったからね、とおぞうたまがおっしゃった時、
思わず噴き出して、ゲラゲラ笑ってしまった。

あぁ。。。そうだ!ほんの数百年前、いや数十年前の人間たちは、日々生きるのに精一杯で、
目標とか言ってられないもんね。
ましてや、自己実現とか自分探しとかホントなかったよなぁ。。。

目標をもたなきゃ生きている意味がないとか、
そうやって生きている人みたいに私もなろうと気張っていた自分が馬鹿らしくて馬鹿らしくて
もう笑うしかなくなった。

露骨な履き違えの一つに気づかされたことは本当によかった。

これぐらいドップリと生き方を洗脳されている自分なのだ。
それこそ、この自分の自由意志なんてものは更々ないことが手に取るように分かる。



話はこれからだった。
第二階層では、苦悩していることの本質は、別にあったのだ。

人々は、意識まで及ばなくても知っている。
自分が求めているものは、幸せであり、穏やかで、平安な毎日だ。

人々は、この苦悩を第一階層の一本線上でのみ苦悩し、解決を求める。

目の前の出来事さえなくなれば・・・
これがあるからダメなんだ・・・
自分はダメな人間だ・・・
だから、こうしよう、こうするしかないとなる。

それらすべては、
頭の中で過去からひねくり回して考え付く、既存の解決方法でしかない。

しかし、第二階層において、
苦悩はこの第一階層の横一本の線から段階を上がる為のものになると、おぞうたまはおっしゃった。


静寂の中で、この苦悩とともにいると1パーセントの可能性で段階があがる。
この1パーセントとは、この世の人々が、
静寂の中でこの苦悩とともにいることが出来る可能性のことのことだ。

たった1パーセントしかない。。。
しかし、わずかな自由意志の可能性がここにきてようやく現れ始める。

それは決まりきったシナリオが変化する世界。
そのことは、これまで世界線の移動として話してくださっていた。

ある朝、何か世界が変わったと感じる。
一般的にそれに気づくことはごく稀である。
なぜなら、その自分も一緒に変化しているので、最初からそうであったと気づかないままなのだ。
しかし決まっていたシナリオは変化し、別の人生が始まっている。

そうやって何度も何度もシフトし、
階層を順々に上がっていく成熟のプロセスの最後に、
第三階層が現れる。


第三階層、それは大いなる叡智(ナフシャ)に従う生き方の現れだ。

大いなる叡智(ナフシャ)に従う時、いつもと違うことが起こる。
より大きなものの一つとして生きている時、個人はその風に流れるように動く。

例えば、急きょ約束した時間が繰り上がっても、なぜかその時、
いつもより早く支度ができていて、丁度いい具合に間に合ったり、
用事がちょうどキャンセルした時に、別の用事がスッポリ入ったり。。。

とにかくそれは、私がそうしようとしたわけでもないのに世界が動き、
私もそれに乗っているよう動かされ、ふいにいつもと違う何かが起こるのだ。

それはとても生きやすい。
計らいも力みもなく、良いも悪いもすべてが風のように穏やかに通りすぎる。

数々の苦悩を越え、現れた平安の世界。
すべてを達観して生きられる。

個人は、もうこれでいいじゃないかと思う。

そう、生きている間はそれでいい。
しかし、最後には”死”がある。


第三階層であっても、”死”を免れることはない。


次なる大きな階層は、階段を上がっていくのではない。
すべての階層を捨て、飛ばなくてはならないのだ。


第四階層

ここへの道は”永遠のいのち”に通じる道。
第四階層は、”永遠”なのだ。


第三階層までは、ハンドルを握る私がいる。
第四階層は、そのハンドルを手放さなくては決して現れない。

サレンダー
未知のエネルギーに満たされ、私は消える。


おぞうたまは、おっしゃった。
「その可能性はわずか0.1パーセントしかない。
私たちの歩んでいるこのナザレのイエスさまの道は、
この0.1パーセントの可能性に懸ける道なのだ。」


今その可能性が、おぞうたまの下で開かれている。

あなたは、その可能性を前に、

そんなわずかな可能性と絶望するだろうか?
そんな奇跡の可能性が今あることに驚き、感謝をするだろうか?