拝啓 ナザレのイエスさま
今日は昨日の場、この世の外側から見たときの、
ナザレのイエスさまと教授が重なりあうことと、
私は存在を持っていてもイエスさまと一つになることはないなどの違いを知りました。
おぞうたまは全体であり、私はパーツ(彼の体の一部)
その違いは分かるけれど、それが何を意味するのかはサッパリです。
また同じイエスさまでも、あの十字架の場面は見つめると消えてしまう。
つまり幻影になっている。。。
でも弟子たちと歩いている場面では、彼だけが消えない。
頭の解釈では、到底つじつまが合わないことが起きている不思議を自覚しました。
何が違うのだろうかと思うにつれ、あなたはこの世では、幻影でもなり、
存在でもなることができるのは分かりましたが、
その意味(なぜ、そうなるのか?なぜ、そうしているのか?など)は
全く分かりません。
また、認識がこの世を創っているということ。
認識がなくてはこの世は成り立たないことが科学的にも立証されているということ。
認識・・・それには、私はナザレのイエスさまを知らなくてはなりません。
私はもっともっと知りたい。
あなたの感覚を感じることはあっても、知りはしません。。。
沢山のことが明かされる日を待ち望んでいます。