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~ナザレのイエス~

あそぶ

幼い頃、金魚柄の浴衣を着て、
ふわふわの帯を腰に蝶結びにして、
大股で駆け回っていた。


押入れは基地。
友人と籠もっては、
今この基地の外では大変なことが起きているんだと
なにやら作戦を練っていた。


庭にスコップで穴を掘り、このまま掘り続けて、
地底人となって、この下で暮らすと本気で思っていた。


無地のTシャツに、もっとステキにしようと油性ペンで
大きくリンゴを描いた。



あそびがすべてだった。


あそびの世界こそが、私の世界だった。


いつの間にか、
あそびの世界はこの世に取って代わった。


今では勝ち負け、お金、
それだけがすべての世界だ。




あの、感覚。


あそびだけがあった世界。




あそびは、世界の構築だ。


一人だけではない、
その世界に共振する人たちがすべて
その世界の住人となる。




あそびは創造だ。

あそびは今ここにないものを刻々と創り、世に出している。




死のない世界。

この世では、死んだ存在たち。

肉体が滅んだように見えても、死のない世界では会え、
またいつものように話すことも、触れることもできる。


それは、死になんの意味もなくなるということだ。

エスさまは世に勝ったと宣言された。
すべてはもうイエスさまによって終わっている。




神の国

それはとてつもなく広大だ。


人、一人の世界がスッポリ、いくつでも入れられる。


神の国は一人ひとりの世界をはるかに大きく包むほどに大きい。




エスさまはたくさんの家を用意してくださっている。
ないのなら、わたしが創るとおっしゃられる。


しかもその家は、豪邸であり、億ションだ。

チマチマした狭い家ではない


神の国で用意されている世界は、
この世でいるところの私の世界とは比べモノにならない。


あそびの世界にあったままがそこにある。
用意されているのだ。


実にたくさんの可能性と奥行き、広さを持つ。
それは動き、膨らみ、広がり続ける。


この世とは、なんだ?

制限しているのはマインドである。

「これぐらいの仕事が丁度いい。
これぐらいしかできない。
これぐらいの生活しかできない。
分不相応の大儀は抱いても達成されない。
現実は現実だ!!!」

ここはなんて窮屈で狭いんだ!

いつのまに、私の世界がすり返られたのだろう。

いつのまに、
あそびの世界が消えてしまったのだろう。



あの、あそびの世界は、確かにあったのだ。
私はそこに住み、そこで存在していた。
いや、それしかなかった。



エスさまのいらっしゃる神の国

おぞうたまの世界は、神の国そのものだ。

この世にしかいない私を
おぞうたまが何度も何度もこの世とは別の世界へと誘ってくださっていた。


けれど、あそびの世界が消え、この世に縛られている私は、
その別世界に飛び込むことを、この世サイズにしか捉えることが出来ないでいた。


神の国へと導かれようとしていらっしゃるのに、
この世で神の国とはなんぞや???あるのかないのか?
吟味してから飛び込もうと画策する。


この世の私は、別世界をとても信じられないのだ。


死がなんの意味もなくなる世界。
あるのだろうか?あるのなら、もちろん行きたい。

しかし、この世にはないじゃないか!

この世の私はそう思うしかない。


しかし聖霊たちはこの世に入り、私を応援し続けている。


不思議なやり方で、出来事で、ハプニングで、
不幸で、幸運で、ある人を通して、思わずこぼした言葉で、
温かさで、冷たさで、動物で、植物で、雲で、風で、空で、水で、土で、空気で。。。

ありとあらゆる万物を使い、私を誘ってくださっている。

サインは、おぞうたまの世界でのみ現れる。

この世では、聖霊のサインは何の意味もないただの出来事である。
日常であり、いつものことに過ぎない。



おぞうたまの、あの、あそびの世界に飛び込み、
そこに住み、それしかなくなるのなら、神の国は生まれる。

この地上に。。。私の世界に。


おぞうたまの誘う神の国に用意された私の世界は、
無限に開かれ、生命溢れる世界だ。

死はもうなんの意味もない。


あの、あそびの世界を再び蘇らせる時が来た。


飛び込むのは、私ではない。

世界だ。

世界もろとも、おぞうたまのあそびの世界に飛び込むんだ。

そして、新たに世界は生まれる。



さぁ、あそぼうぜ〜!おぞうたまの世界で!