おどうたんの世界って、どんな世界?
タブララサ
あそぶ
幼い頃、金魚柄の浴衣を着て、
ふわふわの帯を腰に蝶結びにして、
大股で駆け回っていた。
押入れは基地。
友人と籠もっては、
今この基地の外では大変なことが起きているんだと
なにやら作戦を練っていた。
庭にスコップで穴を掘り、このまま掘り続けて、
地底人となって、この下で暮らすと本気で思っていた。
無地のTシャツに、もっとステキにしようと油性ペンで
大きくリンゴを描いた。
あそびがすべてだった。
あそびの世界こそが、私の世界だった。
いつの間にか、
あそびの世界はこの世に取って代わった。
今では勝ち負け、お金、
それだけがすべての世界だ。
あの、感覚。
あそびだけがあった世界。
あそびは、世界の構築だ。
一人だけではない、
その世界に共振する人たちがすべて
その世界の住人となる。
あそびは創造だ。
あそびは今ここにないものを刻々と創り、世に出している。
死のない世界。
この世では、死んだ存在たち。
肉体が滅んだように見えても、死のない世界では会え、
またいつものように話すことも、触れることもできる。
それは、死になんの意味もなくなるということだ。
イエスさまは世に勝ったと宣言された。
すべてはもうイエスさまによって終わっている。
神の国。
それはとてつもなく広大だ。
人、一人の世界がスッポリ、いくつでも入れられる。
神の国は一人ひとりの世界をはるかに大きく包むほどに大きい。
イエスさまはたくさんの家を用意してくださっている。
ないのなら、わたしが創るとおっしゃられる。
しかもその家は、豪邸であり、億ションだ。
チマチマした狭い家ではない
神の国で用意されている世界は、
この世でいるところの私の世界とは比べモノにならない。
あそびの世界にあったままがそこにある。
用意されているのだ。
実にたくさんの可能性と奥行き、広さを持つ。
それは動き、膨らみ、広がり続ける。
この世とは、なんだ?
制限しているのはマインドである。
「これぐらいの仕事が丁度いい。
これぐらいしかできない。
これぐらいの生活しかできない。
分不相応の大儀は抱いても達成されない。
現実は現実だ!!!」
ここはなんて窮屈で狭いんだ!
いつのまに、私の世界がすり返られたのだろう。
いつのまに、
あそびの世界が消えてしまったのだろう。
あの、あそびの世界は、確かにあったのだ。
私はそこに住み、そこで存在していた。
いや、それしかなかった。
おぞうたまの世界は、神の国そのものだ。
この世にしかいない私を
おぞうたまが何度も何度もこの世とは別の世界へと誘ってくださっていた。
けれど、あそびの世界が消え、この世に縛られている私は、
その別世界に飛び込むことを、この世サイズにしか捉えることが出来ないでいた。
神の国へと導かれようとしていらっしゃるのに、
この世で神の国とはなんぞや???あるのかないのか?
吟味してから飛び込もうと画策する。
この世の私は、別世界をとても信じられないのだ。
死がなんの意味もなくなる世界。
あるのだろうか?あるのなら、もちろん行きたい。
しかし、この世にはないじゃないか!
この世の私はそう思うしかない。
しかし聖霊たちはこの世に入り、私を応援し続けている。
不思議なやり方で、出来事で、ハプニングで、
不幸で、幸運で、ある人を通して、思わずこぼした言葉で、
温かさで、冷たさで、動物で、植物で、雲で、風で、空で、水で、土で、空気で。。。
ありとあらゆる万物を使い、私を誘ってくださっている。
サインは、おぞうたまの世界でのみ現れる。
この世では、聖霊のサインは何の意味もないただの出来事である。
日常であり、いつものことに過ぎない。
おぞうたまの、あの、あそびの世界に飛び込み、
そこに住み、それしかなくなるのなら、神の国は生まれる。
この地上に。。。私の世界に。
おぞうたまの誘う神の国に用意された私の世界は、
無限に開かれ、生命溢れる世界だ。
死はもうなんの意味もない。
あの、あそびの世界を再び蘇らせる時が来た。
飛び込むのは、私ではない。
世界だ。
世界もろとも、おぞうたまのあそびの世界に飛び込むんだ。
そして、新たに世界は生まれる。
さぁ、あそぼうぜ〜!おぞうたまの世界で!
光のグリッド
仲間である羊たちが、一匹残らず焼き殺され、
私の目の前から消え去ってしまった。
私は絶望した。
けれど、その羊たちは別次元で今も生きているという。
捜さなくては、と思っているところで目が覚めた。
おぞうたまとのセッションでこのことを話すと、
前世の記憶とも関係しているし、この道とも関係していると話してくださった。
前世の記憶は思い出せなくても、涙が溢れてきた。
私の細胞記憶のどこかに今も封印されているという。
夢の羊たちの顔が今でも記憶に残っている。
あの羊たちを捜さなくてはならない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
おぞうたまはOPというグループのボスではない。
旦那さんがOPのボスである。
おぞうたまには、たくさんの羊たちがいる。
おぞうたまの視野は、エクレーシアの仲間にまで及んでいる。
ボスゴリラの話をおぞうたまよりお聴きした。
ボスゴリラは、群れ全体を耳光の眼差しで包んでいる。
耳をそばだて、注意を怠ることなく、全体を聴き入っている。
ボスゴリラは群れ全体が自分である。
何か不穏な動きをするゴリラが群れにあっても、
それを、あのゴリラが悪いとはしない。
自分の世界に現れたのは、自分の中にまだそういう欲求があるからだと
留まり続ける。
睨みを利かせているのは、自分の中の不穏な動きだ。
その自分の中の不穏な動きを静かに耳光する。
しだいに群れの不穏な動きはなくなっていく。
性エネルギーを無駄に肉体化しないこのボスゴリラは、
性のエネルギーを自分の内に直視することができる。
性エネルギーを純化したものが結界であり、オーラだ。
ボスゴリラの群れに入った動物学者は、途方もない安堵感を感じたという。
完全に見守られていたという。
ボスゴリラは知っている。
ボスであることは何をするのかを知っている。
群れを護る。
全体をジッとホールドし続ける。
中のゴリラたちは、そこに参入する。
関係(マ)ができる。
~わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい。。。。
互いに愛し合うのは、この関係(マ)がある時そうなっている。
彼の言葉は戒めではない。
~わたし(イエスさま)が愛したように
この言葉は、互いに愛し合うことのすべてを語っている。
そこに留まり、自然と運ばれていく展開に身を委ねる。
出来事や身体や感情に隠れたイエスさまのメッセージ、そこまで降りていこう。
じっと見つめ聴こう。
イエスさまの肉は、日々差し出されている。
耳光、”聴くを照らす”のレッスン。
おぞうたまが、私のエンティティ処理をしてくださった。
そうすることで私の思考や感情も静まり、ぐんと耳光しやすくなる。
そしておぞうたまの導きの下、耳光する。
モヤモヤ、その感じの奥へ、そっと触れるように聴き入って。。。
親鳥が卵をその柔らかな羽毛の下、体温で温めながら、
卵の中心にまで、そっと聞き耳を立てジッとしている。
考えというものは存在しない。
モヤモヤしているのは身体の中にあるけれど、
それはジッと卵が自ら割れ、溶け出すのを待つためのものだ。
穏やかに、浸透するように、眼差しが広がる。
留まるのは、そのモヤモヤと自分が一つになった時。
おぞうたまはそこが静止ポイントだとおっしゃった。
仙骨より前面の底辺にズンとした響きがあるのが分かる。
そこからいろんなものが上がり下がりしている。
表面化して、広がり、消える。
またズンとした感覚が戻る。
何度となく繰り返されるのをジッと聴く。
「『イエスさま、あなたは何ておっしゃっているのですか?』
時々そうお聴きなさい。そうすれば、そこに留まり続けることが容易になる。」
おぞうたまの声がする。
何度かそっとイエスさまに語りかける。
『イエスさま、あなたは何ておっしゃっているのですか?』
ある時、何かがジワーと溶け出した。
濃密な粘り気のある液体が浸透するかのように広がっていく。
不思議な感覚だった。
未知の感覚。
今まで感じたことがない。
その時はこれが何であるのか分からなかった。
気づけば、不安や焦りは欠片もなくなっている。
あるのはゆったりとした安堵の境地。
身体の内側だけでなく、身体の外側、空間全体に安堵が広がっていた。
私はトロっとした液体が私の底辺に広がり、
全身に酸素が行き渡っていくのを感じていた。
「彼の言葉は、環境や現象として現れることもある。
何も言葉としていつも現れるわけじゃない。
こうやって、自らのモヤモヤに変化が起これば、
後はイエスさまにお任せしていればいい。
彼が導かれるままに・・・」
おぞうたまが静かにそうおっしゃった。
>胸の痛みや不安が薄らぎ、安心が広がっていく。
>ああ、変わっていく。
>出来事の暗さや重さは明るさに軽さに変化する。そして安堵する。
>シフトする。
>そのときイエスさまの血が流れ始める。
(1月20日(月曜日)7:15集会コメント 2020/01/23 06:00 by 小僧 )
後に、この小僧さんのコメントを読んだ。
あのトロっとした液体がイエスさまの血であることを知り、
体験した溶け出した液体と血が、あまりにもピッタリすぎて本当に驚いた。
あれはまさに血である。
~わたしの肉を噛み、血の飲む者は・・・
彼の言葉は、体験を通すとこんなにも分かりやすく、
その本質だけを語っておられることに、またも驚かされる。
耳光は、彼からのメッセージが隠れている「そこ」まで降りていくこと。
聴くを照らす、この位置に入ったら道に入っている。
光まで降りて根っこに光が届いたら、不安が安堵に変わる。
そこまできて、初めて状況の様相が変わる。
イエスさまのシナリオになる。
イエスさまの管轄下にあるとは、
単なる世界線の移動とは違うシナリオになるということ。
極めれば、お金も必要なくなる。
そう、おぞうたまはおっしゃる。
『耳光をすること、これこそが道に乗るということ』
そう、明示された。
イエスさまの語る言葉に耳を傾けよう。
聴くを照らす。
その眼差しはとても静かで、とても優しい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
耳光をおぞうたまからお聴きして、数日間。
実践しなさいと、実践を促される事態が私の世界に頻発した。
次男がバイトを止めると言い出し、私はとたん胸中穏やかでなくなった。
次男は18歳で家を出るつもりでいるが、今は学校を行くこともやめ、
バイトも止めようとしている。
理由は何のためにやっているのか分からないから、らしい。
おい、おい、ちょっと待て。。。言葉だけ聞くと、
嫌なことからどんどん遠ざかっていくただの怠け者のように思え、
胸がざわついて、気持ちを抑えることができなくなってしまった。
「そんなんで、どうやって18歳で独りで生きていくの?」
率直に聞き正すと、「さあ?」と言う。
その「さあ?」の一言が、無責任極まりないように思え、
私はもっとヒートアップした。
堰を切ったように私の口から言葉が飛び出した。
不安と怒りが止まらない。
どうしたいんだ、なにをやりたいんだ。
散々問いただす私に、絵を描きたいの一点張り。
「今、描いているの?」と聞けば、「描いている」と。
「生きていくにはお金もいるのに、バイトすらやらないで、
社会から断裂したら、もう孤立しちゃうじゃないのっ!
お母さんは、少しでも社会と繋がっていた方がいいと思う。」
私は自分の不安と自分の願いを吐露していた。
次男は、
「お母さんが言うことは分かっているし、考えてもいるけど分からない。」
と応える。
私は続ける。
「あんたねぇ。。。甘いわっ!
今は家で何でもできるように暮らしているけど、
18で出て行くってことは、家も必要だし、ご飯だって食べるんだよ。
お金なくてどうするの?」
そういうと、
次男は「だから、お母さんがいうことも分かっているんだって!
けど、分からないから分からないとしかいい様がないんだって!」
さっきから同じことしか言わない。。。
私の中から意地悪な心がムクムク湧いてきていた。
「働ける身体を持っているのに、働くこともしないでいるなんて、
あんたは心が病んでいるのかん?」
次男は嫌な顔をしながら、黙って聞いている。
「んじゃ、何かい?私はアンタの18歳までのパトロンか?!」
と私がぶちまけると、
これまたシレっと、なんの悪びれもせず「そう、なるかな」と言う。
もう、ダメだ。。。これ以上言葉がない。。。
けど、言わせてもらう。
「悪いけど、ウチはそんなにお金ないんだよ。貯金だってそんなにない。
このままじゃ、ずっとアンタを食べさせていくために
お母さん、ずっと歳とっても働き続けなきゃいかんくなる。
お母さんはそんなに稼げないし、そうなったら生活保護になる。
アンタだって、働かないなら、家を出ても生活保護のお世話になるってことだよ。
ちゃんと働ける身体を持っているのに、お母さん、そんなのヤダからね。」
そう言うと、「そりゃ、18になったら働くでしょ。」と返答。
働くでしょ、ってアンタ。。。
自分のことなのに、ナニ?その人事のような口ぶり。
「こんな楽な生活していて、嫌なことは何もしないで、
はい、18になりましたで、働ける?」
次男は黙っている。
私はガックリと頭を落とし、うなだれた。
もうイヤだ。。。どう言ったらいいのだろう。。。
私がこういうことを言うと、またこの子に悪影響を与えてしまうんだ。
私のこの抑えられない不安や心配や怒りをぶつけることが、
この子にとって少しも良いことなんてないって分かっているのに、
言わずにはいられない。。。
言ったって、無意味なことも分かっている。
この子がちゃんと独り立ちできるのか、保障はどこにもない。
せめてバイトだけでも続けて、社会との接点と持って欲しいのに。。。
なんだか分からないけど涙が出てきた。
これも私の世界で現れた。
途中耳光しなくてはと気づいたが、気が動転し怒りに任せている最中はとても無理だった。
そこに娘が帰ってきた。
不穏な空気を悟ったのか、無言だが、どうした?という風に、私たちを見ている。
さっそく、娘に聞く。
「ねぇ、あなたは今大学で音楽の夢を生きているんだけど、どう?」
娘は「私は普通の人間だから、大学で学んで、先生や友達から刺激をうけるのが
いいと思っているから、こうしている。」
「それに対して、あなたはどう思うの?」と次男に振ると、第一声「芸術」という。
「・・・え?芸術?」
今までの会話の流れとは無縁な言葉のように思い、思わず聞き返していた。
「芸術は、誰かから学ぶことじゃないし、芸術は、自由じゃないとね」
次男は続けてそう言った。
はぁ。。。芸術。。。
次男の言わんとしている芸術の意味するところがなかなか掴めない。。。
「あのさ、外国に行くとかいいじゃない?」娘が言う。
次男は「うん、そりゃ外国は行けるなら行きたい。」
「んじゃ、そのためにはお金がいるから、まずはお金溜めるとかしてさ。」
なんとかバイトを続けさせたい私がそう言うと、
「う~~ん、そのためにお金溜めるとか、そうしちゃうと、
その外国に行くってこと自体がそれによって制限されるからな。。。」と言い出す。
コヤツの言うことは、もはや異次元レベルな制限だ。
やりたいことに手段があったら、ダメなんか。。。
娘が唐突に言い出した。
「結局さぁ、生きていたくないんだよね?」
なにを突然、そんなわけないでしょ!と次男をみると、
一点を見つめ頷いている。
・・・え?なに、それ?
娘が続ける。
「ウチの周りもそんな人ばっかりだよ。
生きていたくないけど、痛いのがいやだから死ねないし、
今はそんな人に少しでも響くような音楽作りたいって言って生きてる子とかいるし」
次男は、ん?と首を傾げている。
どうやらそれとは違うらしい。
次男が話しだす。
「そりゃ、自分の理想の世界で生きられるのなら、生きていたいよね。」
「理想の世界って何?」
そう聞くと、「自由」と一言。
「芸術を生きるってことは、自由ってことだから。」
言葉はそれだけだったが、なにかが伝ってきた。
どこかイエスさまの道にも通じる気がした。
うーーーん、そうか、芸術かぁ。。。自由ね。。。
なんだかよく分からないままに次男の世界に一瞬飛んで、私は観念した。
「んじゃ、芸術を生きるって覚悟しないとね。。。」
「ん、そうだね。」
なんとなく両者納得して終わった。
けど後になって、私のモヤモヤが止まらない。
格好の耳光のチャンス。
しかし、私はこの期に及んでもそのチャンスに応えることをしなかった。
完全にモヤモヤの渦の中、思考を駆け巡らせているだけで、
その日の夜はなかなか寝付けなかった。
数日後、おぞうたまにセッションにて相談すると、こうおっしゃられた。
「次男君は、人に導かれるのではなく、天に導かれる生き方をしようとしている。
それは聖人の王道なんだと伝えてあげて。
あなたは、その上をいかなくてはなりませんね。成長していきましょう。」
つまり、私もこの道で生きるということは、
イエスさまに導かれる生き方をしようとしていることだから、
目指しているのは同じだとおっしゃる。
しかし、息子は生きていたくないという言葉に頷いていた。
私にはとてもショックなことだった。
社会的な生き方を望まないあの子、
理想の世界でなら生きていたいという。
ひょっとすると、じかに今、
死と背中合わせで生きているんじゃないのか?
ひょっとすると、なにかの拍子に死を選ぶかもしれないのは、
今も続いているのかもしれない。。。
ものすごく怖くなった。
そういえば、あの子が学校を止める時に、今と同じようなことを言っていた。
「絵が描けなくなるなら、死ぬ。どうなるか、自分でも分からない。」
それしか言ってなかった。
あの子はあの当時のままだ。
当時、次男のことを無責任で甘い考えしかない子なんだと思いつめた私は、
今月末で出て行きなさいと言い放った。
少しは自立して生きていくということを考えなさい!
という気持ちから出た言葉だった。
けど、その日の夜、
あの子が絶望して今日死ぬんじゃないかと怖くて仕方なかった。
あくる日、あの子は思いつめた暗い顔をしていたが生きていた。
私はあの子の小さい頃を思い出した。
遊覧船にどうしても乗らないと言い張り、ダダをこねたあの子が、
ドラが鳴ったらダーーーっと駆け出していった。
アンタはいつか、ドラが鳴ったら駆け出して動く子だからと、
18歳まで家にいる条件として月3万円分の家事をしてもらうこと。
あの時、そうしようと決めた。
今現在、次男はそれを文句言わずにやっている。
家族のために晩御飯を作ること、そのための買い物も任せる。
食器を片付けること、洗濯物を取り込むこと。
時折、洗濯することをお願いすることもある。
私はようやく今になって、家を出て行けだの、月3万入れろだの、
次男の性根を直そうと私が言った言葉の数々が、
あの子にとってどれだけ酷なことだったかに気づくことができた。
今はそのことを真に反省している。
あの子は、僕の周りには理解者がいないと思っている。
私は次男のことを理解したいと思っているが、
悲しいかな今のところ、私はあの子の理解者ではない。
せめて、邪魔だけはしたくないと思っているが、事あるたびに黙っていられなくなってしまう。
最近のあの子の毎日の様子。
口笛を吹いて、猫をさわり、紅茶を嗜みながら、空を眺めている。
週1のバイトの日以外は家族の為に晩御飯を作り、
時には作ってみたいお菓子を作ったりしている。
部屋(自称アトリエ)では絵を描いているらしい。
他から見れば、16歳で学校も行かず気楽なもんで、
好き勝手にやっているとしかとれないだろう。
妹の旦那さんからは、
ウチの子はそんな風にならないから何も言うことはないとあきれられている。
もっともだと私は思う。
もしかしたら、社会に馴染めず生きていけなくて死ぬのかもしれない。
今も次男のことを思うと、私の胸は不安と心配でザワザワしている。
今の私に出来るのは、
自分の内にあるザワザワを耳光することだけしかない。
あの子は今、芸術と自由に懸けている。
この先、どうなっていくかはあの子も分からないし、誰も決められない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もう一つの出来事は立て続けに来た。
私は今、自らハンドルを手放す手段をおぞうたまより教えていただき、
同時に、ハンドルを手放すことがいかなることなのかの体験を与えられている.
こんな出来事があった。
初心者マークによる車の塗装の剥がれ。
ディラーで修理をすれば、20万。
ネットで探した地元のモータースでも、18万。
見積もりを掛けた時点では、もう最近は故障続きで、
これを機に車を買い替えた方がいいんじゃないかと思っていた。
ディラーの人は「ずっと初心者マークをつけるのもアリです。」と言っていたが、
そんなのはイヤだった。
とりあえず、マグネット式のステッカーでこれ以上剥がれが広がらないようにと蓋をした。
車両保険が使えるんじゃないかな?
保険会社に電話し相談すると、一度車を見に行くと連絡が入り、
たかだか初心者マークの塗装剥がれに事がだんだん大事になっていく。
モータースの人も、見に来た保険会社の人も
「3ヶ月や4ヶ月マグネット貼りっ放しで、これはないですね。
新車で買ったんですよね?」と聞かれた。
どうやらあり得ないことが起きているらしい。
結果、保険を使えることになり、
保険会社の人が、直すのなら提携しているモータースが自宅近くにあるので、
そこで直すのなら代車はタダですが、どうされますか?と言うので、
とりあえず行ってみる。
直すのか、買い替えるのか、ステッカーのままか、気持ちはまだ決まっていない。
その選択に、さらに保険使うのか使わないのかの選択まで加わり、
私は何がなんだか、何が一番いい選択なのかよく分からなくなっていた。
保険会社は指名したモータースの名前が『サンオートメカニック』
とりあえず、見積もりを取ってもらう。
9万4千円。
おっ、こんなに安くやってくれるの?
少し直す方に気持ちが傾く。が、いうて9万。。。
初心者マークで9万。痛い。。。
貼りっ放しにした私が悪いんだけど、痛い。。。
保険は使ったら等級が下がって次回の保険料が上がり、
しかも免責5万なので、保険使うと計12万はこちらが払うことになる。
けど、保険使うなら、ディーラーでちゃんと直してもらう方が安心だ。
んでも、今は長男の車購入でディーラーに掛け合っているから、2台買えばもっと安くなるかな?
やっぱり、今が買え時ってことなのか?
いろんな思い、いろんな選択肢で頭がいっぱいいっぱいになり、
何がなんだか分からなくなって、この時点ですでに頭がボーっとしてオーバーヒートしていた。
セッションでおぞうたまに相談すると、ワークなさい。と言われた。
選択はシンプルに3つ。
直すか、買い替えるか、このままステッカーを貼り続けるか。
この一つひとつを想起し、軽くなるまで留まる。
最後は3つ同時にやりなさい。
直すこと、ここに留まっていた時、ふと気づいた。
サンオートメカニック?
サンって太陽だよね。。。オートって自動だよね。。。
メカニックって、なんだ?
調べると、メカニックとは、修理や組み立てをする人。
合わせると、「太陽(イエスさま)が自動で修理や組み立てる」所ってこと?
それに気づくと、なんだかよく分からないがフッと軽くなって、
次の瞬間、そこに電話して修理を依頼していた。
電話をすると、ちょうどいいタイミングだったそうで、
今日は塗装が空いているから、スグに取り掛かれます。とのこと。
あぁ。。。任せよう。これでよかったんだ。。。と気持ちが吹っ切れた。
家にいた娘に
「直すことにしたよ、あの車、大事に乗り続けようと思う~!」と
決めたことで吹っ切れた思いのままに話すと、娘はこう言った。
「えーーーー?!直すの?」
・・・・・・完全に不満そうだ。
なんで?というと「だって、あの車、すぐ壊れるじゃん。
だからあんまり運転する気が起きないじゃんね。」と
強烈にアッパーパンチを食らわされた。
せっかく迷いに迷って、
やっと動けたと思っていたその喜びの最中に言われた言葉。
完全に晴れた気分を害された気がした。
直すと決めた矢先に、あの車、すぐに壊れる呼ばわり。。。
だからあんまり運転する気が起きない呼ばわり。。。
私はモヤモヤ全開になった。
「え?どうして今頃そんなこと言うの?
決めた矢先に・・・、もう電話しちゃったじゃん。
だったら、お母さんがどうしようか迷っている時に少しは話を聴いてくれて、
そうやって言ってくれてたら、買い替えることももう少し考えるきっかけになったじゃない!」
娘に溜まっていたイライラと不安をぶちまけた。
娘は娘で、直すにしろ、買い替えるにしろ、お金は家だから、
あまり言えないかなという気持で黙っていたらしい。
もしかして買うならこれかな?と車のカタログも用意して、
その車を可愛い~!と言って気に入っていた娘なだけに、
直すという選択が気に入らなかったという点で、そう言うのも仕方ないのも分かる。
が、娘の姿は私のセカンダリーである。
このイエスさまの道の歩みの一つとして差し出された材料なのだ。
直後は、怒りと不安に任せてしまったが、後で思い返して留まる。
そんな中、いいこともあった。
保険会社とサンオートメカニックさんに、今回は保険は使わない旨を話し、
一方には、ありがとうございましたと、もう一方には、よろしくお願いしますと、
車を任せた。
サンオートメカニックさんが、保険を使わないなら工賃お安くしますね。と
見積もりより一万値引きを約束してくださったのだ。
あぁ。。こんな気持ちの時にありがたいと喜び、本当にすぐにやってくださり、
しかも、使わないパーツもあったからと、こともあろうに、さらにもう一万値引きしてくれたのだ。
あり得ない。。。。なんですか???
ただでさえ、ディーラーの半分の見積もりだったのに。。。
そこからさに2万に値引き?
こっちはこの見積もりでいいですよとお願いしているのだから、
値引きする意味が分からない。。。
けど、実際そうしてくれている。
自動車屋が言うには、クレジットカードじゃなくて、現金だとウチも助かるで、
その分お客さんにサービスさせてもらうとか。。。
ありがたき、幸せ。。。涙
戻って来た車を前に、ピカピカになったことでか、お得に直ったことでか、
よく分からないが、なんだか車への愛しさが倍増に膨らんでいる。
さて、長々と書いてきたこの出来事。
これで終わりではない。
その続きは、塗装が直った翌日に早速やってきた。
ようやく代車から自家用車を乗れるようになったと、ご満悦な気分で車に乗り込む。
エンジンをかけると、警告灯ランプが付いている。
え?何?
走らせる限りでは、普通に走っているように思えるのだが、確かに付いている。
誤診かもしれない。
そういいように解釈しながら乗ってはいるが、
警告灯が付いているからには、何かがおかしいのかもしれない。
大きな上り坂。急に車がノックしだした。
アクセルを踏んでもあまり上らない。
どうしたんだろう?やっぱりなんかおかしいのかな?
仕事場に到着し、朝、車を使った長男に、朝の様子を聞いてみる。
確かに上り坂であまり上らないなと思っていたし、
エンジンを切ってもファンがずっと動いていたから
いつもと違うとは思っていたと言う。
すぐさまディーラーに連絡し、
仕事が終わったらディーラーに持ち込み、そこで見てもらうように手配した。
帰り道は気が気でなかったが、行きほどの危機感は感じない走りだった。
でも警告灯は付いていた。
家に到着し服を着替え、必要な物をもって、さぁ、ディーラーに行くぞと、
エンジンをかける。
あれ?警告灯が付いていない?
・・・ひょっとして直った?
ディーラーに電話すると、警告灯もついておらず異変もないのなら、
様子見で、また調子が悪かったら来て下さいということだった。
私もわざわざ行く手間が省けたとばかりに、その日は見合わせた。
さて、次の日。
車で仕事場へと向かう。
警告灯は付いていない。うん、よし。
走りは、これと言っておかしな感じはしない。
このままなんともなくなるんじゃない?淡い期待をしていた。
帰り道。
上り坂を追い越し車線で少し加速気味にエンジンをふかした瞬間、
グアン、グアンとエンジンが鳴り出し、ノックを始めだした。
とたん、例の警告灯が点灯。
車がガタガタと異常なほどに振動し始めた。
信号待ちの間もガタガタしている。
爆発するんじゃないか?黒煙とか出てたらどうしよう。。
死んだらどうしよう。。。
妄想が妄想を呼び、変な汗が噴き出していた。
いつエンストするか分からない、いつ壊れるか分からない車に乗っているのは怖い。
命の危険まで感じてしまう。
頼む、家まで動いて!!!そう祈る気持ちで車を走らせる。
なんとか家まで辿り着き、ディーラーに電話する。
がしかし、ディーラーは今日明日と休みだった。。。
仕事は明日も明後日もある。車がないと。。。
藁をもすがる思いで、先日塗装してくださったモータース電話した。
しかし、外車のエンジントラブルは、
ここでは診断する機械がないから出来ないと言われてしまった。
もうどうしようもない。。。
新しく車を買うしかないのか?
いや、買うにしてもすぐには手に入らない。
中古なら比較的、早いのか?
いや、とにかく明日明後日の足がいる。
あぁ、昨日ディラーに見せておけばよかった。。。
もう自転車と電車しかないのか。。。時間がメチャクチャかかるな。
車レンタルという手もあるな。。車をレンタルしたらいくらだろう?
なんでこれからこの車を大事に乗るって決めて直した次の日にこんなことになるんだ。。。
やっぱり塗装直さずに、新しく車を買うって決めればよかったのか?
私は間違った選択をしたのか?無駄なことをしたのかな。。。
いろんなことが頭を過ぎっていた。
娘に本格的に車が故障したことを話すと、
「ほら~、私が言ったとおり新しい車買えばよかったじゃ~ん。」と言われ、
お金を使って塗装し直したことがこんなカタチで無駄になっているとまざまざと感じさせられた。
でも、いくら後悔しても、塗装は直っているし、お金も払った後だ。
そんなこと後悔している場合じゃない。
今はとにかく代車が欲しい、仕事に乗っていける車が欲しい。
どうしたもんかとネットで明日開いている外車の修理をやっているところはないか探した。
あった、あった。あるもんだ。しかし、遠い。。。けど、ここしかない!
とりあえず、問い合わせのところに症状を記入しておけば、
向こうから連絡いただけることになっているのでそうした。
明日の仕事も行けないことはないけど、何がどうなるか分からないから、
職場の先輩に連絡し代わっていただいた。
よし、明日一日時間が取れた。
が、どうなるかは全く分からず、目処もつかない。
翌朝、問い合わせたお店から連絡を待つより、こちらから連絡した方が早いと
開店時間すぐに電話をした。
驚いたことに、問い合わせに私の連絡宛の情報が入っていなかったらしく、
連絡したくてもできなかったらしい。
おかしいなぁ。。。慌てて症状だけ書いていて送ってしまったのかな?
まぁ、そんなことより、今日やってもらえるのかどうかだ。
電話口で詳しく聞いてくた上、アドバイスくださった。
もしかしてエンジンオイルが足りないのかもしれないですね。
見てみないことにはなんとも言えないけれど、
ここまで車を運ぶロードサービスのキロ数が足りているのかどうか、
それ以上だと運ぶお金が発生しますが、とのこと。
あぁ、エンジンオイルなら、どこか近くでも入れてもらえるのかもしれないと思い、
とりあえず近所で入れてもらい、様子をみてまたお願いしますと電話を切った。
すぐに近くのJAで外車だけどエンジンオイル入れてもらえないか?と電話する。
すると、外車だとそれ専用とかあるかもしれないから、
ウチではちょっと。。。と言われてしまい、
そういうもんなのか。。。とガックリ。。。
とにかく明日までになんとかしなきゃと気持ちばかりが焦っていた。
もしかしたら、自転車を使うかもしれないからと、
パンクした自転車を直しに近くのホームセンターまで持って行き、パンクを直し、
そのまま近くの中古の車を売っているお店まで行き、良さそうな車はないか聞く。
あくまでも今の車を売る場合を想定しての下準備のつもりだった。
新車ではすぐには車は手に入らないから、中古でと考えたのだ。
お店の人に事情を話すと、中古とは言っても、車を渡すに2週間ぐらいかかりますし、
その車を売るにしても、警告灯がついたままだと、査定で20万は下がってしまうから、
直しがそれ以下の値段で済むのなら直した方がいいですよと、親切に教えてくれた。
その方もプジョーに昔乗っていたらしく、雑談も交えて、
すごく親身になっていろいろ話してくださった。
今思えば、すぐに車買えない?と乗り込んできた
ワケの分からない無知な客相手に、親切に話を聞いてくれることは
とても有難いことだった。
私は本当にパニックになっていたんだと思う。
何をどう動いたらいいのか分からないし、車に詳しい人は近くにいない。
ディーラーは2日間も休み。相談したくても相談できない。
当たり前にあった車が動かなくなるということ。
いろんな思いや焦りを抱えたまま、
頼りたくても頼るすべがない、選択するのにも選択する知識もない、
何が何でも思いつくまま動くしかない状況だった。
車の塗装が剥がれたことから始まった流れの中で、
塗装し直したら、車にトラブルが発生する。
何をするのが一番いいの???
これ以上は無理だぁ~~~!!!頭が悲鳴をあげていた。
その日はもう動くことはやめて、
明日ディーラーにまず電話しようと決めた。
10時には始まるから、それまでに車が動くようなら持っていって、
ダメそうなら、ロードサービスだ。
もうそれしか考えられなかった。
おぞうたまに、このことの一部始終をお伝えした。
おぞうたまは車にもエンティティ処理をしなさいとおっしゃってくださったので、
2回ほどやったが、エンティティ処理をちゃんとやれていたのかは分からない。
とにかく、私はその日、いろいろ考えすぎて、
現実の対処に翻弄され疲れ果てていた。
あくる日、さぁ車は動くだろうか?とエンジンをかけてみる。
警告灯は相変わらず付いていたが、前ほどのガタツキはない。
近くを少し走らせてみて、なんとか自走できるかも?と思い、
隣の市のディーラーまで行く気になっていた。
そんな中、職場の先輩が車直りましたか?と連絡下さった。
まだ直っていないのですと、今日からディーラーが開くので朝一に持ち込んで
代車借りてきます。と伝えると、
前半と後半、代わりましょうか?と提案してくださった。
思っても見ないことだった。
昨日も突然代わっていただいて迷惑をかけてしまったのに、
今日も配慮してくださり、あちらから代わってくださるという。
とても有難いことだった。私はありがたく甘えさせてもらうことにした。
これで少し時間の猶予ができた。。。
開店と同時に待ってましたとばかりにディーラーに電話する。
すると、車を見ることは出来るが代車がないと言う。
すぐに直ればいいけれど、車を預かるとなると代わりの車がないので、
私は公共機関で帰ってもらうしかないと言われる、
なんてことだ。。。時間がない!代車が欲しくてしかたないこの時に。。。。
でも、直すしかないと、保険のロードサービスを頼んだ。
車がないので、昼過ぎに会社に行く方法を考える。
その時である。
母親が私に「エンジンオイルだけのことなら、近くのモータースでも頼んだら?」と言ってきた。
私がJAで聞いたら出来ないって言われたというと、
「あの車、一度は近くのモータースで車検しているんなら、そこでエンジンオイル交換しているよね?
なら、いいと思うけどなぁ~。
なんならディーラーの人に、エンジンオイルってどこのでもいいの?って聞いてみたら?」と言う。
あ、それもそうねと、デイーラーで聞くと、べつに粗悪なものでなければいいということだった。
予定変更、すぐさま保険のロードサービスをキャンセルして、
エンジンオイルだけでも交換してもらえないかと、
近所のモータース、例のサンオートメカニックさんに電話する。
すると、あっさり、
「いいですよ~、前の塗装の時にやればよかったですね!」と。
「いえいえ、実は、今エンジントラブルが出ていて、エンジンオイル交換したら直るかなと思って」
と言うと、「あ、見てみましょうか?」とこれまたビックリな展開。
たしか、前はダメって言ってたよね。。。と躊躇したが、
どうやら電話口の人がその時とは違う人らしい。
とにかく、すぐに持っていく。
その人は警告灯を見て「あ~~~、エンジンかぁ~~~!」と首をひねっていた。
「たぶんですけど99%、エンジンオイルで直らないと思いますよ~。」と言う。
あぁ。。。やっぱダメか。。。と諦めかけていると、
「まぁ、一度見てみますわ~。」と診断機みたいなのを持ってきた。
「あれ?ないんじゃないんですか?」というと、
「あ、これ?正確なのはないですよ。でもまぁ、できるんじゃないかと・・・。
まぁ、中に入って待っててください」と言う。
よく分からないけど見てもらえるならと、待たせてもらう。
しばらくして、「すみません、やっぱね~。分からんわぁ~。
ウチね~、プジョーだけ診断機がないんですよ。ディーラーしかアカンかなぁ。。
でも、車ってどんな症状が出ているの?」と聞いてくださるので話すと、
しばらく無言で、「う~~~ん、アタリかも。。。」と言う。
「アタリ?」と聞き返すと、「実は一つはエラーが出ているんですよ。それかもしれないな。。。」
「じゃ、直してもらえるんですか?」と期待しながら聞く。
「(故障が)これだろうで直すのはちょっとね。。。うん、ディーラーで聞いてみるで、
まぁ~また連絡しますで、車置いていって」と言ってくださったので、一度家に帰る。
しばらくすると、電話で「ディーラーに繋がりましたわ~。ディーラーもそこじゃないかということで、
コッチでも直せると言っていたので、ウチでやりますわ。オイル交換もするかね。
代車、なんでもよかったらお貸しますけど。」と言ってくださる。
私は思わず電話口で
「きゃーーー!!!」と奇声をあげてしまうぐらいうれしかった。
念願の代車だ~~~!!!
でも修理代、いくらなんだろう・・・
外車のエンジントラブルは、30万、50万とかもあるとネットで調べてかなりビビッていた。
値段しだいでは、直すことをやめて買い替えも考えていた。
「いくらぐらいかかりますか?」と恐る恐る聞いてみる。
「まぁ、2万。でも他もダメだったら3万かな。」
・・・え?そんなんで直るの?
「お、お願いします。」即答する。
すぐに代車をもらいに行く。
「まぁ、2日後に取り掛かるで、代車のガソリン、そんなに入れなくていいでね~。
1000円も入れんでいい。お金かかっちゃうで。」
あれまぁ。。。そんなことまで、心配してくださるの?
私は代車を貸してもらえることが、うれしくてうれしくて仕方なかった。
ガソリン代なんて、どれだけでも入れちゃうわ!とニコニコして聞いていた。
さて、そんなこんなでようやく代車を手に入れて、
仕事場へと行き、仕事していると夕方携帯が鳴った。
サンオートさんだ。
嫌な予感がした。。。やっぱり出来ないとかなのか?
不安が過ぎる。。。
「はい。」ドキドキ・・・モヤモヤ・・・
「アタリました~!アタリですわ。」
へ?
「直りました!」
へ?
「やっぱねぇ~、燃焼プラグでしたわ。4本あるうちの一つがダメになってたんで、
そこを直して、まぁ今後もこういうことあるかもしれないけど、ないかもしれないですけどね。」
「では、もう車の警告灯は付いてないんですね?」と確かめると、
「はい、もう大丈夫です!」
早い、早すぎる・・・
「んで、修理代なんですけど、思ったより安かったので、オイル交換込みで1万8千円ですねっ!」
へ?なんですとっ?!オイル交換も入れてですかっ???
もぉ、もぉ。。。うれしすぎるっ!あるんだ。。。こんなことが。。。
なんという展開。。。
またもサンオートさん。やってくれました!
ありがたい。。。少し涙ぐみながら、電話でお礼を言って、
あくる日、車を取りに行く。
「ガソリン、入れさせちゃって悪かったですね~。」
毎度の軽快な飛ばしで迎えてくださった。
いえいえ、とんでもございませんっ!と頭を下げ下げ、
お金を支払っていると、ワイパーの異常に気づいてくださって、
交換したら直りますよと言ってくださったので交換することにした。
数日後、ワイパーも現物代だけ、工賃なしでやってくださった。
塗装も新しくなり、エンジンも今のところいい、ワイパーだってブーブー言わない。
車が劇的に変わった。
つい数日前、真剣に車を買い替えようか、考えていた私。
サンオートさんに、実はもう買い換えようかと思っていたんですよ。。。と話すと
ビックリされたように「え?まだまだ乗れますよ!10年でも15年でも、乗れますよ。
乗ってください。」と言ってくださった。
なんでもその方の奥さんもその方も前にプジョーに乗っていたという。
だから、プジョーの良さはよく知ってくださっているのだという。
私は本当にうれしかった。
おぞうたま以外、誰もがもう買い替えじゃないの?と言っていたこの車に、
まだまだ乗れると車のプロが太鼓判押してくれたのだ。
おぞうたまは今回の騒動の話をしたとき、
プジョーを美しい車ですよとおっしゃってくださっていた。
プジョーのエンブレムは、ライオンのマーク。
ライオンはイエスさまの象徴の一つでもあるんですよと、
おっしゃってくださったことで、私は買い替えすることに待ったをかけれたのだ。
あぁ。。。直してよかった。。。まだまだ乗れる。
このいろいろあった間、
きっとおぞうたまは耳光で車と私を包んでくださっていたのだと思う。
それがもたらした最善の自壊作用。
しかし、今回私はそこに参入できていなかったことを痛感している。
ただバタバタと動きまわっていただけだ。
何一つ、私の思ったとおりに事は進まなかった。
エンジンオイルのこと、代車のこと、車の買い替えのこと、
ほとんど全部、これでもかというほど変更を余儀なくされた。
一方、流れは次々に展開していった。
仕事のシフト変更を買って出てくれる先輩や、アドバイスをくださる人たち、
母の助言は、まさにベストなタイミングだった。
サンオートさんの軽い受け答えや気前の良さは、
パニックで重くなっている私の気持ちをどれだけ軽くしてくれたことか。
結果、車はそんなに高くかかることもなく直っている。
あぁ、これがハンドルを手放せってことなんだ。。。
言われてもやれない私に実際の体験を通して、
こんなにも分かりやすく教えてくださったこの一連の出来事には、
もう感謝しかない。
これからは、やるべきことをやっていく。
それは、普段からの耳光だ。
まずは加熱(時間をとって留まる)。
これがないと、出来事の最中ではとても耳光することはできない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
実は、私へのサインの出来事はまだある。
娘のイヤホン紛失。これには続きがあったのだ。
初期不良だから無償交換して欲しいけれど、
一つを無くし、壊れている一つしか手元にない娘は、
相手のメーカーとやり取りをしているが、一向に話が通じないらしい。
相手側は初期不良であることはいっさい触れず、
二つで一つの商品だから無償交換は出来かねます。としか連絡が来ない。
交換したいのなら、一つ無くした人と同じ条件で交換します。
と提案するのだと言う。
初期不良なのに、どうして?と食い下がると、
ご案内できるのは、ペアでの料金のみで、片方のみの購入はできません。
片方のみですと、左右でペアリングしている製品になるため、
左右から同時に音楽を聴くことができません。
ご理解の程何卒よろしくお願い致します。
とメールが送られてきたらしい。
娘は誰も片方だけ売れなんて言っておらん!わかっとるわ!と激怒し、
これ書いたの人間?と不思議がっていた。
これもサインに違いないと、おぞうたまにセッションにて話すと、
「分かりやすいですね。」とおっしゃる。
なんだろう?とお話を伺うと、『ペアでなければならない』ということですよとおっしゃる。
片方ではダメなんです、と。
『互いに愛し合う』これでした。
これができていないですよと、何度も娘を通して私に伝えられていた。
関係・間(マ)の耳光
これが今一番大事。
まず、おぞうたまとの間(マ)の耳光。
できれば、そこから聖霊との間(マ)の耳光。
そして、その中で家族や親密に関わっている人や生き物との間(マ)の耳光。
これをエンティティ処理、ヒーリング、出来事の耳光より優先してやることです。
とおぞうたまが教えてくださった。
私は勘違いしていたのだ。
他者のヒーリングをするから、他者のエンティティ処理をするから、
互いに愛し合っていることをしていると思っていた。
もちろん、ヒーリングもエンティティ処理もする。
だけど、一番大事なのは関係、間を耳光することだった。
私が何かを一方的にすることじゃなかった。
『互い』これが抜けてしまっていた。
それに気づきなさいと何度も忠告が届いていたのだと
今回気づかせてもらって、これからは間(マ)であることを、
しっかり認識することができた。
そしてもう一つ、同じようなサイン。
長男が、新車を買ったが、
その営業さんのところに必要書類を持って行く約束をしておいたのに、
行かなかったという。時間がなかったらしい。
しかも、行けなくなったのにも関わらず、
なんの連絡も取らなかったというから、
電話の一本ぐらいできたでしょう!と長男を叱った。
関係をとらない。繋がらない。
これもそうだった。
何度も、いろんな方面から現れる『互い』がないというサイン。
それから、この出来事にはもう一つサインが含まれていると
おぞうたまはおっしゃった。
二度あることは三度あるになるか、
三度目の正直になるかの、瀬戸際。
長男の今回のことは、実は2回チャンスがあった。
バイトの行きに時間があれば、寄って行く。
それが無理なら、帰りに寄ってくる。
しかし、そのどっちもダメだった。
一度目は時間がなかったといいう理由で、
二度目は、バイトの終わる時間を間違えていて、
ディーラーの営業時間よりバイトの終わる時間の方が遅かったという。
電話しなかったのは、バイト先に黒いズボンを履いていくのを忘れ、
バイト先で黒いズボンを買うために、
休憩中お金をおろしにコンビにまで行ったりして、時間がなかったらしい。
でも本人曰く、電話しようという気がそもそもなかったという。
これらのサイン。
ちゃんと理解し、ちゃんと応えていきたい。
二度あることは三度あるではなく、三度目の正直としなくてはならない。
私の世界で二度あったことは、車の不具合。
塗装の剥がれと燃焼プラグの故障だ。
それから、もう一つは、
長男と次男が一緒に横断歩道を歩いていて、
二度車にぶつかりそうになった出来事だ。
一つ目は昨年の夏、横断歩道を渡っていると、
目の前を車が通り過ぎていったという。
しかも、ギリギリのところをスピードも落とさずに。。。
たぶん、運転手は自分らが見えてなかったんじゃないかなと話していた。
そして二つ目は、つい最近のことだ。
長男が言うには、気づいた時には、車が急ブレーキで止まっていたという。
どこから車が来たのかも分からなかったぐらい突然のことだったらしい。
次男のすぐ横でピタリと止まっていたから、あと少しタイミングが悪かったら
次男も自分もアカンかった。
長男が「死ぬのは一瞬だ」と思ったと話してくれた。
私はこの話を聞いて、
もしかしたら息子二人共に失う事態が起きていたかもしれないと身震いした。
このサインには、注意が必要だ。
車であれば、また壊れるかもしれないということ。
長男と次男が車にぶつかることは、死を意味する。
どちらも、イヤだ。
後者はとんでもなくイヤだ。
関係を持つ。繋がる。間(マ)
これがどれほど大切なことなのかを今、教えられている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後に、イエスさまから与えられたギフトの体験をここに書いて終わろうと思う。
~あなたがわたしを受け入れるのなら、あなたはわたしの言葉を聴くだろう
~あなたがわたしを受け入れるのなら、あなたは二人だけの間(マ)ではなく、
多くの仲間の間(マ)となるだろう それはどこにでもある
~あなたがわたしを受け入れるのなら、あなたは光りになるだろう
その時、おぞうたまの辺り全体に、沢山の光の粒子が集まってくるのを見た。
それは圧倒されるほどの数、面々。。。次々と集まってくる。
光りの粒子は決して個人ではない。網目状の広大な一つの塊のようだ。
おぞうたまは光のグリッドとおっしゃる。
お互いがお互いを照らし、光を反射しあい、
どちらが与えるのでも、受け取るのでもない。
光りの粒子が私でもあり、私が光の粒子でもある。
「光のグリッドに属している。」
この言葉がピッタリだ。
こんなに無数の仲間がいる。
~わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい
互いとは、あなたと私ではない。
この世の個人と個人が向かいあっているのでは決してない。
あなたと私の間(あいだ)にある間(マ)。
それは深く、濃厚で親密に結びあっている。
互い、とは関係、それそのものだ。
それが二人の間(マ)。
しかし、光のグリッドは開放された互いだ。
こんなにも開かれ、キラキラとして、
二人だけの間(マ)にある深く、濃厚で親密なものが、幾重にも重なり四方八方に感じられる。
これは・・・
あまりの光りの数に圧倒されっぱなしになった。
私は独りじゃなかったんだ。。。
こんなにも多くの仲間が同じ場に属している。
互いが見つめ、見つめられている。
私の居場所はここだ。
ここでだけ息をすることができる。
それは、この世であってこの世ではない。
ここに属する仲間たちが、こんなにも沢山いることがうれしかった。
”光の粒子”、それは私たちの仲間だ。
時空を越えている。
比喩として言えるのは、その規模は宇宙的な大きさだということ。
それぐらい破格な規模でしか捉えることができない。
チマチマしている自分の頭を完全にガッツーンと殴られたようだった。
私の考えていることと、あまりにも規模が違いすぎる。
この世でのアレコレ、あの人この人では、全くない。
私たちの仲間が光りのグリッドとして姿を現してくれた。
仲間は、私たちを見つめてくれている。
いつか同じ場所で活動をすることになる。
それは、実際の姿となって現れるのかもしれないし、
光の粒子としてサポートするのかもしれない。
ナザレのイエスさまが愛したように、互いに愛し合う仲間は存在する。
一時でもこのことを忘れないでいよう。。。
余談:あまりの光の凄まじさに、光に慣れていない私の身体の反応に驚かされた。
この体験の後、しばらくして気づいたのだが、筋肉痛のように全身が痛い。
帰り際、立ち上がろうとしたら、腰が抜けてしまったのか足に力が入らなくなってしまっていた。
おぞうたまにエンティティ処理をしていただいて、なんとか立ち上がることができたのだが、
それにしてもすごい。。。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
レンマ
蛸(たこ)は8本の腕に脳が供えられている。
この軟体動物は、その腕が触れた瞬時にその腕から擬態を始める。
それはまるで魔法だ。
みるみると全身を変化させ、次の瞬間もう周りの色に溶け込んで姿は見えない。
そこに時間は介在されない。
時間のない姿を見せる蛸。
蛸は、レンマ的知性の象徴である。
イエスさまの癒しは瞬時に起きる。
イエスさまが「立って歩きなさい」とおっしゃれば、病人もスッと立って歩く。
「汝の病は癒された」とおっしゃれば、即、病は消えたのだ。
イエスさまの癒しに時間は介在しない。
こういったことを聴いている今もレンマ的思考に留まるようにと
おぞうたまはおっしゃる。
おぞうたまの話される言葉、私の話し出す話題、すべてが全体としてそこにある。
私は今、時間の世界に生きている。
そんな私がレンマ的に思考するとは?
全体を全体として把握する。
全体を包含し、その真理に深くスーッと入っていく。
いろいろなサインとサインが理解を促すと同時に、
サインとサインが理解によって色濃く映し出されていく過程は、レンマ的思考の表れの一つだ。
それだけでなく、そこに留まれば、理解からさらに大きな理解へと導かれ続ける。
いつしか、理解し続ける生き方にシフトする。
一方で、理解せずにいれば、サインは自ずと激しさを増してくる。
始めのサイン、娘はイヤホンの片方をなくしたり、
折り返すには終電のない時間、場所まで寝過ごした。
そして、また出来事は起きた。
娘は定期テストの日に寝坊して、遅刻は免れない状況になってしまった。
娘は大慌てで、差していた傘を駅構内の改札口まで差したまま歩いて、
気がついて恥ずかしくて苦笑いするしかなかったというほど気が動転していた。
本来なら、遅刻でテストは受けられないのだが、
乗り換えの電車が強風で遅延しており、その遅延届けのおかげで娘は30分遅刻でも
テストを受けることができた。
大事な時に寝ているというサインが、段々に強調されている。。。
同じ日、長男の財布が一時無くなって、大騒ぎだった、後に見つかった。
大事なものをなくしているというサイン。
その時のサインは、その二つだった。
よし、目覚めて大切なことを見失わないようにしようと理解した。
しかし、別の日。
今度は長男が卒業のかかったこの時期に大寝坊をした。
なんでも今日授業に出なかったら、単位を落としてしまうらしい。
つまり、卒業できないということだ。
娘の定期テストが受けられないどころの話ではない。
卒業できなければ、せっかく決まった就職も取り消しだ。
今から電車とバスでは到底間に合わない。。。
お母さん、悪いんだけど、車出せる?と珍しく私を頼ってきた。
ところが私もその日は仕事で、長男を大学まで送迎していたら、
遅刻は必須になる。
私が咄嗟に出た行動は、長男を送ることだった。
とにかく、今はコッチだ。それしかない。
結局、長男は1時間もの遅刻。
なんとか授業終了30分前で教室に入り、教授のご好意により、
首の皮一枚卒業に繋がった。
もし来なかったら、どうしようもなかったと言われたそうだ。
私は25分遅刻の出社となったが、それほど問題もなく終わった。
あぁ、よかった。。。
それにしても、こんなことが立て続けに起きるなんて、まだ理解が足りなかったのだ。
おぞうたまに促されて、思考する。
卒業・・・
大事な時に寝坊する;・・・
目覚めて、大事なことを忘れないだけじゃダメなのか・・・?
う~~ん、まったく理解できない・・・
「あなたにとって、卒業とは?何に卒業するのですか?」
おぞうたまの問いかけに「この世です。」と、すかさず応える。
この世の卒業の為の課題が残っている。
この課題は何だろう?
課題、課題・・・
光に留まるのは、私の課題であることは知っていても、
なかなか出来ない。
なんせ、すぐに眠りこけてしまうのだ。
現実の世界にリアルを感じ、そちらにキューッと入り込む。
光りなどは、どこにも無くなってしまう。
私はまだ自分の力を信じている。
なにか出来るんじゃないか?私がやらなきゃいけないことじゃないのかな?
手助けしなきゃ。口出し、手出し、誘惑に駆られ、私はすること(doing)をしてしまう。
そして、私がしたから、事は大事に至らずに済んだのだと錯覚している。
しかし、この道は、することではなく、あること(being)。
サレンダー、そうでありますように。。。御心のままに。。。
この状態でいること。
私がどれだけ頑張ってもシナリオは決まっていて、
それに動かされているだけの私は、この世の私。
しても、しなくても、シナリオ通り。
しかし、イエスさまの道は、この世のシナリオにはない未知の道。
この世からの卒業は、もうシナリオもなく、時間も介在しなくなるということ。
卒業したら、この世では、何も起きなくなるんだ。
理解は次々に展開し、サインの数々からこの理解へと導かれた。
そもそも、サインがなければ、今の私は一歩もこの世から抜け出そうとはしないだろう。
物は豊かに溢れ、住む家はあり、子どもらも猫もいる。
大きな病気もない。
最終の死を見ないで生きれば、これでいいのだ。これで十分。
しかし、この世では死に抗うことはできない。
愛する家族、大事な存在たちも、間違いなく死ぬ。
この道はイエスさまの道は、死のない、神の国への移行だ。
悩みや問題はあれ、大事にしているものがありすぎるこの世。
大事な子や友人、生き物たちをこの世に置いて、私はここからの卒業を望むのか?と
ふと立ち返る。
ならば、いっそこの道を止めて、みんなと一緒に死ぬという考えに流れる。
時間の中で、頭が流れるのはコッチだ。
頭を離れる。
愛の空間に入り、思考する。
仮に、私が卒業課題をクリアして、スタコラサッサと、神の国へと移行する。
いや、いや、トンデモナイ。。。置いてはいけない。
イエスさまの道は、まさに大事なすべてと共に、である。
誰一人、欠かすことなく、神の国へと移動する。
イエスさまは、彼の分身である仲間のためにこの世に来たとお聴きした言葉が、
私サイズでリンクする。
レンマ的思考は、よりナザレのイエスさまの道の真理を理解する。
理解する毎に、サインは起きなくなる。
いや、自らの居場所が変化するんだ。
目にする、耳にする出来事が、サインであることを直感するのは、
このレンマ的な思考に開かれているからだ。
常に目覚めていること。
眠っていることとは、ひとつの出来事を、ぶつ切りに捉え、
ひとつが終われば、忘れ、また別のことに囚われる。
その繰り返しをすることだ。
最近のサインの中にこんなことがあった。
私は自家用車に、免許取り立ての子どもらのために初心者マークをつけていた。
3~4ヶ月経ったところで、初心者マークを一度はがしたら、
ブクブクと水ぶくれになっている。
何これ?!と水ぶくれを潰そうとしたら、あっけなく、クリア層がペラペラ剥がれてしまった。
思えば、これもサイン。理解を求められていた。
私は初心者マークでこの世のあぶくのように出来るものに、
右往左往翻弄されて生きるのは真っ平ゴメンだ。
しかし、この道に乗ってさえいれば、
次々と起きる事象は、イエスさまと聖霊によって計らわれている。
シナリオは書き換えられている。
いや、イエスさまのシナリオ、この世のシナリオ、どちらであっても構わないのだ。
シナリオ(個々の出来事)に乗らず、理解し続け、
次はどんなシナリオを見せて下さるのだろうかと、
何が起きても心配はいらない境地(静寂)へと
訓練(現象の下に立って理解する:アンダースタンド)され続ける。
見る方向は光り、生命。
私のハンドルを手放そう。
向かう先さえピタリと見据えていれば、
あとは自然にそちらに向かっていくのに任せるだけだ。
『第四階層』
今、大きな飛躍が求められている
目覚めていなさい
~あなたに与えられるものは、すべてわたしの愛だ、それしかない、受け取りなさい~
おぞうたまの額の奥の光りに留まり受け取ったその愛は、
私が思っている愛、求めている愛より、はるかに強く壮大だ。
一瞬にして毛穴が広がり、身体が溶け出す。
私の目から涙がボロボロと溢れた。
一ヶ月も前だろうか、娘がポツリとこんなことを言った。
「お父さんが生きていたら、私を愛してくれているだろうか?」
娘が問いかけたこの問いは、
私が無意識にずっとイエスさまに問い続けていたのだと、
応えが与えられたその瞬間に分かった。
娘は私の世界にサインをもたらしてくれる。
先日、娘は電車で寝過ごして、引き返すには終電もなく、
真夜中に車で片道30分ほどの隣りの市まで迎えに行く事態が二日続けて起きた。
そして、イヤホンを片方だけ失くすことが続けて起きた。
一度目は、一度はなくなったものの、後で見つかり、後日また片方失くしたのだ。
二度も起きたこのことは明らかに私へのサインであるが、
そのことに気づいたのは、セッションでおぞうたまにこのことを話した時だった。
それまでサインだと気づかずにいた私は眠っていたのだ。
今回のサイン。
一つは文字通り、大事な時に寝過ごしていること、
もう一つは、聞く耳が片方抜け落ちているということだ。
なぜ、このサインが今、私に与えられたのか?
私の課題、それは”死”である。
と同時に、ルンが残してくれた課題がある。
それはルンが生きていたときにあれほどまで私を愛してくれていたことに、
私はこの世であの子を失ってから気づいた。
生きている間に気づき、愛に応える。
これが私の課題だ。
生きている間に・・・
これはこの世を私自身が離れる前に、この世に愛を返していくことでもある。
おぞうたまが統合したら、それがくる。
今生にすべてがある。
線形ではなく、今生を円の中心と捉える。
この地上を離れる前にすべての恩を返す。
身体にも、人にも、過去にも、記憶にも。
聖霊がこの世で沢山のサインを与えてくれる。
この愛に応える。
サインは良いこととしても悪いこととしても現れる。
けれど、そのすべてはイエスさまの愛だ。
静寂はこの世に満ちている。
そして、そこに愛が舞い降りる。
この愛は私を光りへ誘い、光はいつしかこの世に満ちる。
そこに私が生きるのなら、この世は光りと愛で満たされる。
ヒーリングは、自ずと起きる。
それが、この世でできる私の唯一の恩返しだ。
しかし、ここまではこの世のこと。
この静寂も愛も光りも、この世なのだ。
第三階層。
人々はこれでいいじゃないか?と思うだろう。
これ以上何を求めるのか?と。
いや、第四階層がある。
それはこの世ではない。イエスさまのおられる国だ。
では、そこは?
第四階層は、どこにある?
『騒ぎ立てたり揺り動かしたりしないでください、愛が目覚めたいと思う時まで・・・』(雅歌)
私たちは愛が目覚めるまで進めない。。。
けれどおぞうたまは、この言葉を踏まえた上で、あえて伝えてくださった。
「愛が目覚め、この地上を離れたとき、現れるそこはもうこの世ではない、神の国だ。
この道を歩むものは、そこを目指す。」
おぞうたまは一つひとつ丁寧に説明してくださった。
この世とは、一本の横に引いた線。
そこはすべてが決まっている。何もかもだ。
誰かにプレゼントをしたとしよう、それも決まっている。
そして、それを受け取った相手の反応までも決まっているのだ。
そこに自由意志はない。
一本の何もかもが決められている横に描かれた線の上を歩くだけだ。
聖霊から与えられるサインも、その線の上で歩んでいる時、
個々の出来事がその時だけに現れ、そのまま消えていく。
いいことは、ラッキーが訪れたと喜び、
悪いことは、これが悪かったからだと考えあぐねるものの、
どうすることも出来ず、過ぎ去るのを待つだけだ。
人々は感情だけを喚起し、また次のシナリオへと向かう。
そこには、なんの神秘も感謝もない。
これは第一階層。
次に第二階層がある。
すべてが決まっている第一階層ではいいことも悪いことも日々起きる。
何もない日であっても人々はより幸せを望み続ける。
それゆえに、人々は苦悩する。
その苦悩は、履き違えられたままだ。
目の前の叶わない何かを追い求め、それが叶わないからだと、その思いに苦悩する。
目標を決め、それに向かって生きること。
それこそが生きることだと、現代人は何の疑問もなく思っているが、
昔の人間はそんな生き方している人いなかったからね、とおぞうたまがおっしゃった時、
思わず噴き出して、ゲラゲラ笑ってしまった。
あぁ。。。そうだ!ほんの数百年前、いや数十年前の人間たちは、日々生きるのに精一杯で、
目標とか言ってられないもんね。
ましてや、自己実現とか自分探しとかホントなかったよなぁ。。。
目標をもたなきゃ生きている意味がないとか、
そうやって生きている人みたいに私もなろうと気張っていた自分が馬鹿らしくて馬鹿らしくて
もう笑うしかなくなった。
露骨な履き違えの一つに気づかされたことは本当によかった。
これぐらいドップリと生き方を洗脳されている自分なのだ。
それこそ、この自分の自由意志なんてものは更々ないことが手に取るように分かる。
話はこれからだった。
第二階層では、苦悩していることの本質は、別にあったのだ。
人々は、意識まで及ばなくても知っている。
自分が求めているものは、幸せであり、穏やかで、平安な毎日だ。
人々は、この苦悩を第一階層の一本線上でのみ苦悩し、解決を求める。
目の前の出来事さえなくなれば・・・
これがあるからダメなんだ・・・
自分はダメな人間だ・・・
だから、こうしよう、こうするしかないとなる。
それらすべては、
頭の中で過去からひねくり回して考え付く、既存の解決方法でしかない。
しかし、第二階層において、
苦悩はこの第一階層の横一本の線から段階を上がる為のものになると、おぞうたまはおっしゃった。
静寂の中で、この苦悩とともにいると1パーセントの可能性で段階があがる。
この1パーセントとは、この世の人々が、
静寂の中でこの苦悩とともにいることが出来る可能性のことのことだ。
たった1パーセントしかない。。。
しかし、わずかな自由意志の可能性がここにきてようやく現れ始める。
それは決まりきったシナリオが変化する世界。
そのことは、これまで世界線の移動として話してくださっていた。
ある朝、何か世界が変わったと感じる。
一般的にそれに気づくことはごく稀である。
なぜなら、その自分も一緒に変化しているので、最初からそうであったと気づかないままなのだ。
しかし決まっていたシナリオは変化し、別の人生が始まっている。
そうやって何度も何度もシフトし、
階層を順々に上がっていく成熟のプロセスの最後に、
第三階層が現れる。
第三階層、それは大いなる叡智(ナフシャ)に従う生き方の現れだ。
大いなる叡智(ナフシャ)に従う時、いつもと違うことが起こる。
より大きなものの一つとして生きている時、個人はその風に流れるように動く。
例えば、急きょ約束した時間が繰り上がっても、なぜかその時、
いつもより早く支度ができていて、丁度いい具合に間に合ったり、
用事がちょうどキャンセルした時に、別の用事がスッポリ入ったり。。。
とにかくそれは、私がそうしようとしたわけでもないのに世界が動き、
私もそれに乗っているよう動かされ、ふいにいつもと違う何かが起こるのだ。
それはとても生きやすい。
計らいも力みもなく、良いも悪いもすべてが風のように穏やかに通りすぎる。
数々の苦悩を越え、現れた平安の世界。
すべてを達観して生きられる。
個人は、もうこれでいいじゃないかと思う。
そう、生きている間はそれでいい。
しかし、最後には”死”がある。
第三階層であっても、”死”を免れることはない。
次なる大きな階層は、階段を上がっていくのではない。
すべての階層を捨て、飛ばなくてはならないのだ。
第四階層
ここへの道は”永遠のいのち”に通じる道。
第四階層は、”永遠”なのだ。
第三階層までは、ハンドルを握る私がいる。
第四階層は、そのハンドルを手放さなくては決して現れない。
サレンダー
未知のエネルギーに満たされ、私は消える。
おぞうたまは、おっしゃった。
「その可能性はわずか0.1パーセントしかない。
私たちの歩んでいるこのナザレのイエスさまの道は、
この0.1パーセントの可能性に懸ける道なのだ。」
今その可能性が、おぞうたまの下で開かれている。
あなたは、その可能性を前に、
そんなわずかな可能性と絶望するだろうか?
そんな奇跡の可能性が今あることに驚き、感謝をするだろうか?
舞
映像1と映像2を比べてみよう。
●映像1:Sonia Ochoa
●映像2:セルシー納涼祭2015
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最後はSoniaで。