peer

~ナザレのイエス~

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4月11日

一年前にpeerちゃんが通してくれた道。
歩み方は、おぞうたま自ら指し示してくださっていた。

「peerちゃんは自分の為にこのような姿を見せてくれている。私の為なのだ。」

おぞうたまは一歩もゆずることなく、そこから離れることなく、
peerちゃんと自分を重ね合わせ、最後まで共にいた。

peerちゃんは、孤独じゃなかった。

 

死ぬ時は一人だ。誰も一緒にいやしない。
泣いてすがる家族も、死者と一緒ではない。

誰のために泣いているのか。。。
もしそれが死にいく者の為の涙であるのなら、それは共にいたことにもなる。

けれど、おぞうたまはそれとも違う。

peerちゃんが亡くなった時、自分が亡くなったのだ。
この世から消えてしまった。。。

 

peerちゃんはこの道の歩みをやめなかった。
いつも歩んでいた。

倒れても前足、後ろ足を動かして歩みを見せてくれていた。

その頃、彼女のミルクを飲む姿を見たことがある。

おぞうたまがミルクの皿を持ち上げ、peerちゃんの口元に持っていく。
peerちゃんは力強く、顔中ミルクだらけにしてビチャビチャと飲んでいた。

カッと見開いた目は真っ直ぐ目の前にいる私を見ていた。

peerちゃんは生きる力だ。
peerちゃんはあきらめない。

ミルクを飲むpeerちゃんを、愛おしそうに見つめているおぞうたま。

私は初めて気づいた。最初は目を疑った。

peerちゃんはおぞうたまである。
おぞうたまはpeerちゃんである。

両者の存在が重なっていた。

通い合う圧倒的な存在感。
peerちゃんとおぞうたまだけが、場面から浮かび上がって見えていた。

おぞうたまとpeerちゃんに通い合う愛がそう見せてくれたのだろうか。。。
互いに愛し合う、ナザレのイエスさまがもたらす愛が映し出された瞬間だった。

その時の私は、peerちゃんとおぞうたまと一つになることは叶わなかった。
あの頃の自分ではダメだった。いや、見ることこそが私への恩寵だったのだ。

 

1年かけてpeerちゃんが私を変えてくれた。

おぞうたまがpeerちゃんと共に開いたナザレのイエスさまの道。

始めから決まっていた。

peerちゃんは朋だ。

すべて分かっていた。

私の為に、peerちゃんが存在していた。

おぞうたまはpeerちゃんをナザレのイエスさまが愛しているように愛していた。

peerちゃんの死が私にもたらしてくれたものは、
互いに愛し合うということなんだ!

peerちゃんを愛し、peerちゃんも私を愛している。
それは、今こうして気づく前に、もうそうだったんだ!


朋は、おぞうたまの世界で生きるが故に、
他者と切り離すことができない苦しみを持つ。

ここには、おぞうたまの、ナザレのイエスさまの愛があるからだ。

 


以前に書いた『道』(2018/8/05)より、おぞうたまの言葉をここに載せます。
今一度、噛み締めて読みたい。


peerちゃんへの敬意は、おぞうたまの世界で愛を知った時から始まる。
この愛はあまりにも尊い。。。

 

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中国に黄山という山がある。


その頂上は見渡す限りの雲海に覆われている。
山水画の原点のような幽玄な風景だ。
その昔、人々はその山頂へ向けて石の階段を築いた。

その数、何と六万段。

果てしない作業だったろう。
けれど人々は諦めなかった。
放り出すなんてことはなかった。

そのお陰で現代の私たちも、あの絶景を何としても見ようとするのなら、
ものずごく大変ではあっても、一段一段登って行きさえすれば、
あの神秘の山頂に立つことができる。

 


この道は、私のピーがいのちをかけて築いた道だ。

ピーもイエスさまもこの道を築くのに命をかけた。
ヨハネはいまもハザマにいる。
みなどれだけの痛みをついやしたことか。

みな愛のためだ。


OPで何か指摘されると「今週はずっと落ち込んでいて、もう辞めたくなった」とか
「普通のばあさんとしてこの世でいきるのでもいい」などと安直に書いたり言ったりする、
その思いが正直なものというのは当てはまらない。

道を行く決断ができてる人には違うタイプの正直さが出てくるからだ。

ピー(ヨハネにもイエスさまにも)に本当の敬意を表してほしい。
そういう人にこそ歩んでもらいたい。


道は命をかけてできたのだよ。
それがわかるとは、態度(道に対する在り方)が根本的に変わる。

この態度こそ決断なんだ。
それはピーへの敬意(愛のはじまり)だ。


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