触れる
“触れる”
それがなければ、どんないい話も架空の話で何もない。
一体、誰に話しているのか?分からなかった。
卒業生のお祝いの式辞。
教育委員会の方が話される新しい門出に述べられたら祝辞の言葉、
いい話なのに、話だけが宙に浮いて消えていくようで、
一体誰に話しているのだろう。。。と不思議な感覚で聞いていた。
おぞうたまに話すと、こうおっしゃった。
「誰が話しているかなんです。」
誰が、ですか?
何かに触れていないのなら、自分にこもっている。
私たちであれば、ナザレのイエスさまに触れている時に話される言葉というものは、
全く違うでしょう?
確かにそうだ。
触れる・・・触れる・・・
その感覚、いつも自然と感じ取っていたらしいが、
意識したことがなかった。
新しい発見。気づきのプロセス。
触れていることが、すべてだ。
いつも、絶えず、繋がろう、この願いをナザレのイエスさまに捧げよう。
彼はいつも問いかけに応えてくださる。
触れ続けよう。
ゆらぎの世界をあるがままにして、触れ続けよう。