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~ナザレのイエス~

回想5

2/19 
 
娘は、教官のおじさんが怖かったらどうしよう、怖いわぁ。。。と言いながら
自動車学校に出かけた。

娘には娘の悩みややることがあって、その世界で生きている。

長男は今だ部屋で寝ているのか、何しているのか、彼には彼の世界があって、
次男には次男の世界があって生きている。

この世はそれだけなんだと思った。

私の見ているのは、
なにか空洞のような空っぽのような私のいない世界だけが動いているように見えた。


私も今まで彼らの世界と関わって生きていると思っているけれど、実はそうじゃない。

私に見せてくれている彼らの世界は私の世界。
関わっているのは、私の世界の中の彼ら。

もっと言えば、私がこの世界。

 
探求時、私に語られていた言葉。
「あの子(次男)はあなたのためにいる。この問題はあなたの問題だ。
あなたはわたし(ナザレのイエスさま)の言うことを聴きなさい。
この世ではなく、この道を歩むのだ。」
 
 
 
この世の苦しみの中から美(光)が生まれる。
苦しみと知覚しているものも、彼の擬態であることを見出す。

私の世界を創り出しているのは、私。
私自身が世界。

ほんの少しだけ、この世の顔を知覚した気がした。
この世での全責任、全主導権は私にある。
 
この世のものが私である以上、
私はどこまでいってもこの世から逃れることができない。
それは絶えず不安や心配が付きまとい、人はそれに動かされる。
そして、その人である私は、この世界そのもの。

しかし、この世界はただの空っぽだった。
子どもらの世界も、それに関わる私の世界も、すべて私が見る世界。
その空っぽさは、即私だ。

娘を送り出し、玄関でたたずみ、私の世界は空っぽなんだとうっすら感じたまま、
トイレに入ったとき、それはやってきた。

急に、本当に急にどこからともなく感謝の気持ちが湧き上がってきた。

なんて、なんて、ありがたいことか!
ここに私がこうしてこのなんとも言えないありがたさを感じていることが、
ありがたい。
この生に現れるありとあらゆる出来事は、すべて拭い去られた。
 
この恵みがあることすべてに私は感謝した。

その訪れはあまりにも唐突だった。
エスさまからこの恵みをいただくまでの計らい、この粋なこと。。。

それは、血を流すような心痛の中、与えられた。

この世界の秘密、それは世界が私であり、その現れている世界はなんとも希薄。
いや、空洞だ。

私自身がその世界であり、空洞であることを知覚したとき、
私は途方にくれた。

なにもない。。。子どもらも出来事も、私もすべてはない。。。


その後、あらわれたあの感謝は、私のものではない。
その感謝の渦の中でただそれを感じていた。


溢れる感謝にこの身がつぶれそうになるほど降り注がれた。

あぁ。。。なんてことだ!!!


私のこの与えられた体験は、もちろん彼からの恵みだ。

しかし、それは助走にすぎなかった。
 
 
おぞうたまに、このことを話した。
感謝の体験、それはこの迷いの只中で訪れたまぎれもない恩寵だと
自覚した。

しかし私は、その後もこの世の中に囚われていた。
あの恵みの体験をしても、囚われるものがあった。

過去が現れてくる。

次男がお腹にいた時、まだ生まれる前で顔も見ていないのに、
この子は可愛い。。。愛おしい子だ。。。とハッキリ感じたあの時。

あの、子煩悩な主人が豹変したかのように、赤ん坊のこの子を可愛がらず、
泣いていてもうるさいからとベビーカゴごと廊下に放置されていた時、
私が夕飯の支度を止め、主人になんでこの子だけそんな扱いをするの?!
と訴えながら、あの子を抱っこしてあやしていたことを。

主人も自分のおかしさに気づいていて、次男をお風呂に入れる時、
沈めてしまいそうになるんだ・・・とどうにもならないことに私に吐露した。
私はそんな主人を信じられず、主人も当惑し、互いに悩んだあの日。

4歳ぐらいだろうか、まだ一緒に寝ていた頃、私が寝室にいくまで、
先に寝てなさいと言っても階段でうずくまって私を待っていた。

すべてが愛しい思い出だった。

私は次男を母親としてどうしても手放したくなかった。
彼に導きを委ねることの方がいいに決まっている。手放さなきゃ。
頭では分かっている。でも出来ない。
なにがなんでも私が守らなきゃ。。。そんな思いしかなかった。
 
 
私の本性、それは常に駆り立てられる不安だ。
今朝、私を襲った欝症状はその本性だった。
次男をどうしても手放したくない思い、それも私の本性だ。

おぞうたまはそれを衝動といった
 
おぞうたまから直接、この露になった私の本性に、話しかけていただいた。
 
「あなたには何も出来ない。」
 
私のそれは、確かに聴いた。。。
 
世界が静まり返った。
時間も動きもすべてが止まった。
 
真の願いが、その何もない空間から全身を震わせながら湧き上がってきた。
 
「イエスさまにすべてを委ねられる、それが叶ったら死んでもいい。」
 
そう言っていた。
私が言ったのではない、願い自身がそう言った。
 
おぞうたまはその願い自身に言葉をかけてくださった。

『いのちは自分のものでない。』

この言葉。
 
この言葉ををおぞうたまから聴かせていただいた時、
どれほど安堵したことか。。。救われた。。。

もう守らなくていい。。。なんて、楽なんだ!

身体がゆるみにゆるんだ。

脱力。。。頭には何もない。

もう考える必要がないとは、このことか!
 


~恐れるな
荒れ狂う海の中、船で恐れている弟子たちに向かってそうおっしゃった。

~平安であるように。。。
十字架刑の後、忽然と現れたイエスさまは、まず始めにそうおっしゃられた。

いつも死と隣り合わせの弟子たちにとって、
彼から与えられる平安がどれほど恵みであったのかは計り知れない。

このイエスさまに委ねることができる。



ソロモン王が、神と名指したお方、その神に委ねることこそが、
平安の要であることを愛する息子につづった。

その平安こそが果実、それ味わい、それを民と分かち合う。
そうすれば、お前の棚は、ぶどう酒でいっぱいになるだろう。

ソロモン王は知っていた。
神からもたらされるこの平安を。。。
 
 
 
髪を振り乱しながら考えに考え抜いた。でも上手くいかない。
悩み、囚われ、分からない未来におびえ、
それでもなんとかしなければならない衝動に駆られ続けた。

命をなんとしても守らなくてはならない。。。
私は独りだ!!!
 
小刻みに震える足でヨロヨロと立っている自分を感じた。
胸の奥にある恐れ、体の深部にまで震えが伝わる。

私は動かされる。この衝動に、この切迫感に。
不安が何をどうしていても絶えず付きまとっていた。
 
しかし、私はもう何も隠される必要はない。
 
この衝動こそが、自分である。
そして、それはなかった。。。幻とも呼べない。

本当にない。
見ている私もいない。

そこに注がれた真実。あるもの。
 
大きな安堵が私を包んでいる。。。
いや、私だけを包んでいるのではなかった。
 
世界が安堵だ!
 
それがすべてだった。
 
ナザレのイエスさまから与えられるすべて、それで十分だった。
 
「これがあれば、もう何にもいらない。。。」
 
温泉にでも浸かっているかのように脱力していた。
 
 
おぞうたまはおっしゃった。
 
「何もない器に彼からの光は注がれるのです。」
 
『いのちを置くものは、それを豊かに得る』
 
まさにその体験が起きたようだった。