peer

~ナザレのイエス~

智恵の始まり

〈智恵の始まり〉

それは、ナザレのイエスさまの愛の下で行われる。
ナザレのイエスさまの愛の下とは、この世ではないということ。

おぞうたまの話を聞いているだけで、もう別世界にいる。


問題を挙げる。

次男の学校での様子。
相変わらずつまらないと言っていて、母としてはヒヤヒヤしっぱなしである。

さて、この問題を念頭に置き、おぞうたまの話を聴く。

通常、私の世界に全責任を取ると言えば、世界と私に二分して考えられる。

世界に対する私はとても小さい、けれど、私の世界だから全責任を負うんだ。
とても勇敢な決意である。ポジティブに勇気も出るだろう。
この世では、こういう思いで難局を乗り切ろうと知恵を働かす。


けれども、この道でいう〈智恵の始まり〉は全く違う。

次男の学校での様子、それを渦として捉えた時、私はその渦の中心だ。
ここまでは一般的な先ほどのこの世の考えとも重なる。

“世界を渦として捉える”ということはこの世の考えでも変わりないからだ。

けれど、おぞうたまが語る時、この“世界を渦として捉える”というのが、もう違う。

“世界を渦として捉える”というのは、考えではなく、
おぞうたまのこの例えを聞いた時、本当にそうなのだと、
もう渦そのものが私になっている。

この時、私はこの世から出て、飛んでいる。

ここが、まず大きく違う。

そこで、次にくるのが、
渦そのものが私である時、中心の私も渦となんら変わりない。という知覚。

つまり、渦を眺めて、悲鳴を上げたり、困った困ったと唸ったり、
この渦は良い悪いと判断している渦の中心の私は嘘っぱちであることが、
一目瞭然になる。

何故なら、見ている私は渦全体であることが見えているからだ。

渦が私であるのに、その中心の私とやらが、
ワーワー、ギャーギャー、大騒ぎしているのは、滑稽そのものだからだ。

私であるのに、私が抵抗している?
はて、なんだこれ?


「それに気づいた時、問題はどうなっていますか?」

おぞうたまが問いかけてくださった。

あっれー?問題が問題ではなくなっている。。。

「これが〈智恵の始まり〉です。ここからが、イエスさまの道です。」

なんて明快なんだろうかと思った。
おぞうたまの話を聴けば、もう私は飛んでいて、この道に乗っているのだ。

 

〈智恵の始まり〉を説明的に言葉にすれば、

『今あるこの世の出来事を、良いも悪いも価値判断せずに、
私がそうしたいと思っていた、私が体験したくて創造したと、
今、目の前で展開している私だけの世界に全責任を取ること。』

のだが、これが頭でそう言い聞かすのでなく、
まさに〈智恵の始まり〉の状態のことを語っているのである。


おぞうたまはさらに深めるべく、喩え話をしてくださった。

「ジャングルの中では、木々が生い茂り、上空に出る出口を探すのは難しい。

けれども、ひとたびジャングルの上に行けば、すぐに飛び立てるでしょう?
このジャングルの上に立たなくてはね。それが〈智恵の始まり〉。

立ったのなら、すぐに飛び立てて、大空を飛ぶことができる。

今はせめてジャングルの上に行く。そしてそこからジャングルを見つめるのです。
そこからならジャングルがよく見える。

よく見たのなら、もう問題ではないでしょう?
それに煩わされることはないことがよく分かる。

後は、飛ぶのです。

次の段階に行けます。」

 

続けて、「この世では5段階ある。」とおぞうたまがおっしゃった。

例えば、死のテーマについて。

1:なんとも思わない
2:知る
3:悲しむ
ーーーーーーーーーーー
4:ゆらぎの世界ー〈智恵の始まり〉
5:神の国

細かくは、1,2,3段階がこの世のことである。
4,5は、もはや別世界に移行している。


4段階目から、この道である。とおっしゃる。


おぞうたまが話されていることは、この4段階目から上のことで、
この話をこの世の頭が考えてしまうと、まるでトンチンカンなことになってしまう。
注意が必要である。

4段階目、これ以上は、この世のことの一切が恵みへと変わる。

ナザレのイエスさまの与えてくださった擬態、カモフラージュを見破るまで、
恵みを恵みとして受け取れるようになるまで、彼と繋がりヒーリングする。

それが今、求められている。

もうこの世での同情や愛情では通用しない。

彼と繋がり、彼の血が全体に流れなければ、死だ。

これが聖書の葡萄の木の喩えで語られていることなのだ。

私たち全体が彼に繋がっていなければ、実はならない。


菌の蔓延、このサイン。
全体が淀んでいますよ。風も吹かず、大きな動きもない。
そこに、菌は蔓延するのです。

彼の血を循環させなければならないことのサインであることを
おぞうたまより教えていただいた。


ナザレのイエスさまとのコミュニオン、
仲間へのヒーリング、
仲間や問題に対して、大きなナザレのイエスさまへの信頼の下ですべてに向き合う時、
全責任は取られている。

これが、このゆらぎの世界を動かしているのだと私は思う。


彼の血が全体に循環しますように。。。

私たち一人ひとりが、透明になり、
彼の体となってはたらくことができますように。。。