peer

~ナザレのイエス~

信仰宇宙

信仰の宇宙と、この世は全く違う。

信仰宇宙にいる時、この世は”ナザレのイエスさまの擬態である。
一方、この世にいる時、この世は”現実(リアル)”である。


この世の私はコントロールされている者であり、コントロールそのものでもある。


ここでいうコントロールとは、

ただ単に思うとおりに動かせたいとかそういったコントロール欲求だけのことではない。

あまりにも当たり前すぎてコントロールの領域ではないように思っているもののこと、それである。

例えば、壁は固く、人体は通り抜けることはできない。空を飛ぶことはできないなど、
物質の常識と限界もあれば、思考に潜む縛りもある。

例えば、私以外の他人が存在していると思っているがために、
その他者の気分や思考に、私が変化をもたらすことは不可能であるなど。

これはすべてコントロールされている思いに過ぎず、真実ではない。



ここ最近、私は次男のヒーリングをする時とグレースのヒーリングをする時とでは、
ずいぶん感覚が違うと思っていた。


生活の只中でずっと注意が張り付いてしまっていた次男のことが、
グレースのヒーリングをしている時は、すっかりなかったことのように思えている。
それはまるで過去の出来事かのように、もう終わったこととして全く気にならなくなるのだ。

けれど次男への心配は、グレースのヒーリングを終え、生活に戻るとたちまち現れてくる。

すごく不思議だなぁ。。。と思っていた。
そして頭でグレースのことに比べたら次男のことは大したことじゃないからなんだと思っていた。

セッションにて、このことをおぞうたまに聴いていただいた。
おぞうたまは、その違いを意識化できるよう促してくださった。

まず、おぞうたまの前でグレースのヒーリングと次男のヒーリングの違いを区別してみる。

次男のヒーリングをしていると、空間は狭く、私の存在状態(ステート)も低い。
けれど、グレースのヒーリングをしているときは、空間は開放され、私のステートは愛にまで昇る。

同じヒーリングであっても、自分のステートがこんなにも違っていたのだ。
どうやらヒーリングをする対象によって私の方が変化するらしい。

おぞうたまはおっしゃった。
「この道に乗っている者をヒーリングすると、ヒーリングするものが変化させられる。」

私は納得した。確かにそうだ。。。

では、どうしたら戻らないでいられるのか?それが問題だと気づいた。

おぞうたまは

「常に第三ラインにヒーリングをすること、ヒーリングできない時は思い出すだけでもいい」
と応えてくださった。

この言葉で、実際には、ヒーリングの時以外であっても、
グレースを思い浮かべているだけで、自分のステートが違うことに気づけた。

これも納得だった。それならできそうだ。。。


では、なにか思ってもみない問題が起きて、グーッとこの世のことに埋没して、
ナザレのイエスさまもおぞうたまでさえも思い出すことがなくなってしまう場合は?
これこそが問題だと提案する。


おぞうたまは「『時』があるんだ。」そうおっしゃった。


その時、ハタッと気づいた。
私は解決方法を求めている!私は自分でこの事態をコントロールしようとしている!
自らなっているものに気づいた。

途端、思い出した。
『すべては彼(ナザレのイエスさま)が決めておられる。』


あぁ、すべて彼にお任せしていればいい。。。


急に力が抜けた。
パンパンに張り詰めていた自我の空気がプシューっと抜けていくかのように
張っていた全身の力が抜けていった。

なんて、なんて楽なんだ。。。この私すら彼にお任せすることができるだなんて。。。


”彼が決めておられる、時がある、コントロール欲求が自分であることの気づき”
これらがもたらしてくださった開放感。

しばし、この安息を味わっていた。



しかし、ことはそれだけでは終わらなかった。


おぞうたまはさらに私に語りかけてくださった。
「いいですか?そのまま・・・そのまま、ただ私の言うことを聴いていてください。」

「はい・・・」なんだろうか?と思った。


聴いていると、先ほどの気づきと同じことを何度も繰り返し私に話してくださっている。

私はためらった。

もう分かっている、理解したことを再度話し続けているのを聴き続けるのは、

なんだかおかしなものだ。

どうしておぞうたまは語り続けているのか?サッパリ分からなかった。

「これは・・何で話しているのですか?」たまらず、おぞうたまに質問した。


おぞうたまは静かにおっしゃった。「何も考えないで、ただ聴いて」


何も考えないで?そんな聴き方したことがない。
私は今まで理解しようと考えながら聴くことしかしたことがない。


つまり私にとって、聴くこと=理解することなのだ。


それでも、おぞうたまは考えないで聴けとおっしゃる。


とにかく、聴こう。


そう聴いていると、おぞうたまの言葉が何を話しているのかサッパリ分からなくなってしまった。
おぞうたまの言葉が理解をもたらすものではなく、単なる言語の連なりのように聴こえてくる。
その言葉に意味なんて全くない、どうにも落ち着かなかった。


私は一体何をしているんだ?全くの無意味さにソワソワしている自分がいることに気づいた。


おぞうたまはおっしゃった。
「あなたには何もできない。」


あっ、そうだ!私には何もできないのだ!


私は理解した。


途端、「あっ、理解しちゃった。」(考えてしまった!)と思い、そう声にもらした。




おぞうたまは「これでよし。あなたの中のコントローラーが理解した。だからもうこれでいい。」


このおぞうたまの言葉でフィニッシュを迎えた。


その結果、私は全くの静けさの中にたたずんでいた。


先ほどの楽さ以上のものがある。


何かの浸透力が当たり一面を覆っている。


「この世界は彼(ナザレのイエスさま)の擬態である。そう思えますか?」おぞうたまの声がした。


あぁ、そうだ。まさにそうだ。この世界は彼によって創られている。


「未来は過去ではないですか?」不思議な問いが投げ掛けられた。


私は当然のように応えていた。
「未来?そうです。もう終わったことです。」


未来起きること、そのすべてがもうすでに終わっていた。
ハッキリ何かが決定的に見えるわけではない。


けれどそれは儚くも愛おしい。

こんなのは初めてだ。




おぞうたまは私のコントロールの根源を破棄してくださったのだ。
それは、この世の私の破棄だ。この世の私とは、コントローラーである。
コントロールされている者がコントロールする。それがこの世の私。


コントロール欲求の根本解放、それはおぞうたまが語られることを聴くだけだった。


聴くとはコントロールするものが、コントロールされたまま理解することではない。
コントロールする者が聴いたとき、それが解放される。


そして、コントロールする者が理解するには、私は聴くだけだということだった。

理解したいのは、コントロール
このことを頭、つまりコントローラー自身がハッキリと知覚し、
理解したとき、初めてコントロールが手放される。


不思議な道理、しかし、それはまぎれもなく真実だ。


それは体験でのみ知ることができた。


未来が過去であるという体験が起きるのは信仰宇宙だけだ。
(現におきている問題も、過去にこんなことがあったけれどと、すごく希薄に感じられる。)


その状態のとき、多元宇宙を知覚することもできる。


通常は知覚がすごく狭められて、この世しか知覚できないでいるが、
多元宇宙は、現にある。


そこで行なわれていることはこの世にも影響し、
この世で行なわれていることは多元宇宙にも影響しあっている。


本当のここは不思議な世界だったのだ。




おぞうたまは、何度もおっしゃった。
「グレースは死ななくてもよかった。。。」


この世は彼の擬態である。グレースの死も、彼の擬態。


そう見える信仰宇宙の中で見るこの世は、すべてナザレのイエスさまの手の中にある。
彼がすべてをつかさどっている。


信仰宇宙

そこは”永遠の命”の世界。


別離のない世界。。。


平安と喜びと愛だけがある世界。。。


本物のグレースは、ナザレのイエスさまのところで元気に走り回っている。
最初から病気でも何でもなかったのだ。

私が見ていたこの世の動けないグレースは、

私だけにナザレのイエスさまから与えられ見ていたグレース。


しかし、本当の彼女は違った。見ていたのはナザレのイエスさまの擬態。

彼女は信仰宇宙で飛び回っている。


信仰宇宙は死後の世界ではない。

信仰宇宙こそが真のリアル。

そこは、自分だけではない、自分以外の平安がある世界なのだ。

信仰の宇宙を望み、そこに飛び込む、と同時に
真実を嗅ぎ分ける鼻と見極める目が与えられる、と同時に、
光(美)を見出そうと丁寧にこの世の幻想性に取り組むことが可能になる。

この3つは同時進行。順番なんてない。

それは苦難にだけでなく、生活のすべてにおいて、
ナザレのイエスさまの擬態を見出し、その恵みを味わい感謝していくこと。
これが彼の肉を噛むこと。


現実の虚偽性を味わうのだ。そして霊が与えられる。