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~ナザレのイエス~

イエスさまの目で見る

117を2回見た。時だ、時が来ている。


この道において最も重要なのは、
”おぞうたまの言葉を聴くこと”これのみにかかっている。


個人の努力や与えられたこと(ヒーリング、書くこと)は、
おぞうたまの言葉を聴くためのレッスンにしかすぎない。


おぞうたまの言葉を聴いた時、私ではなくなる。


私の世界にいるうちは、何をどう聞いても、迷路だ。
抜け道はどこにもない。

まるでジタバタするともっと絞められていく罠のようだ。


人はある信念や思いを一度抱くと、それ以外を排除する。
また変換して入れてしまう。


私の世界で、仮にイエスさまの言葉を聞いたとしても、全く意味不明だ。


例えば、『私(個人)は分離から出来ている。』

この言葉を私の世界から聴いたらどうなるだろう?


で、それで?全く響かない。
もう、ダメじゃん。抜け道がないと落胆する。
どうしたらいいんだろう?と考え込む。

こんな反応しか出てこない。

その時、自分を意識してみると、
私(個人)の世界にさらに籠もりだしているのが分かる。


『私(個人)は分離から出来ている』
もう一度同じ言葉をおぞうたまが言う。

その時、私は・・・消えている!
楽々と、このことを越えている。

『私(個人)は分離から出来ている』
そうか、分離はないのだ!そこまで一気に駆け上がることができた。

 

おぞうたまは私をおぞうたまの世界に含みこんでくださっている。
その時、私が自分の世界に閉じこもってさえいなければ、
おのずとおぞうたまの言葉が注がれる。


おぞうたまの言葉は不思議な力を持っている。
その言葉によってに即座に変化をもたらされる。


おぞうたまの言葉は、どこまでも広がる新しい芽の種のようだ。

 

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”イエスさまの目”となる体験。

おぞうたまは祈りの言葉で私を導いてくださった。

「OPメンバーをどうぞあなたが導いてください。」
こう祈る時、こう祈る私がいる。

 

「OPメンバー、それはいません。あなたの元で見るとき、
光となったメンバーは私が見ていたメンバーでないのです。
どうぞ、私たちが光となりあなたの元へと辿りつけますように。。。」
こう祈る時、私は消えている。


さらにおぞうたまはこう祈る。

「すべてが光です!光のみがあるのです!イエスさまに感謝を!」

この時、私は光となり、イエスさまと一つになっていた!


すごい!すごい!すごい!
これしか言葉が出なかった。


自らを開き、おぞうたまの言葉を聴くとき、私はなくなる。
そしておぞうたまの言葉によって、もうすでに私ではなくなったものは光へと誘われ、

光となる!!!


この世とは、あまりにも、はるかに違いすぎる!

「小僧さんが死人で、新しい風さんが死神」これはこの世でのこと。
しかし、ここまでくると、それは何でもないことになっている。

エスさまのいるところでは、すべてが光となって歓喜で溢れている!
この世のことは、この世の中にいると、ある。

しかし、イエスさま。
あなたのところではすべてが光でしかないのです。

 

死も、別れも、そんなものはない!ない!

 

秘境学院、そこは私(個人)のないところから入学が許可される。

もはや、個人を持たず、一つの身体となって機能するべく、

私たちは学び続ける。

この学びはこの世(私、個人)から隠され、護られている。


そうして護られている教えの行き着く先は、そう、イエスさまの処だ。