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~ナザレのイエス~

信仰

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「もう光にいる」

そう信じることが信仰である

命を助けるとは、囚われた命の解放である。

光の中で命と命が交流する

そこにじっと留まる

これがヒーリング

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一週間前に概念は与えられていた。

体験は突如として現れた。

おぞうたまの「イエスさまが伝えようとしていることを伝えたい」この予告どおりそれは起きた。
おぞうたまはいつもイエスさまの願われることを願ってくださっておられる。


造物主の作り出すこの世と、イエスさまの世界は交わることがない。

どこにも接点がない。
全く違うのだ。

けれども、イエスさまはその違いに気づくことから、
エスさまの世界、その場に誘う。

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おぞうたまはおっしゃった。

「気づきは、大事なことなのか?この世では大きなことかもしれないが、
本来、この道にとっては大事でもなんでもない。
なぜなら、気づきはこの世のものだからだ。」

気づきが「私」をシフトするきっかけになるかもしれないが、
それには、おぞうたまの言葉(光)がなくては何にもならない。
気づきは気づき止まりでしかない。


「私」がなくなる時、場がシフトする。
何もない「無」がここ(この世)であることを知る。

手でデモをしてくださった。
両手を合わせて、私がおぞうたまの手を押す。
私はしっかりと知覚されている。

今度はおぞうたまが私の手を押す。
うん、私はある。押されているのは私の手だ。

今度は私が押すでもおぞうたまが押すでもなく手が自然と動く。
確かに、私が薄くなっている。

おぞうたまは、「手は意志の座なので、私をなくすのは難しいが、足ならもっと私がなくなるだろう」
そうおっしゃった。

それでも、手のエネルギー感覚はかなりなものだった。
手を離しても、ジンジンとしている。

「私が薄くなったその私の中を見て」おぞうたまがふとおっしゃる。

私は自分の身体の中を見た。

おぞうたまはすかさず「今、私というのが自分の身体の内側に限定されているね。
それより少し広げよう。今はどうだろう?私(おぞうたま)とあなたは別々だろうか?」とおっしゃった。

確かに区別はなかった。私というのが、私の身体だけに留まっていない。おぞうたまも私だった。

「では、両者の中を見て」

その場を見る。

「何もない。。。」私は知覚したまま応える。

「では、そこに留まり続けて」

不思議な感覚だった。
私はもう私個人ではなく、おぞうたまもいない。
私たちは場となり、さらにそこに留まるものでもある。

しばらくすると、おぞうたまはおっしゃった。
「振動を感じないか?微細ではあるが・・・」
そう言われ気づいた。「確かに振動があります。」

場、全体が振動している。。。

「これは何によって振動している?」おぞうたまが問われた。

「場を包むものです」そう応えると、おぞうたまは「外側、ですね。」とおっしゃった。

そう、外側だ!私は気づいた。場に外側がある!!!

「外側に出られるだろうか?」この問い。。。

とても出られなさそうに思えた。

なぜなら、その外側は私の身体感覚でも、意識感覚でも捉えられない外側なのだ。
よって広がることも、上下左右に動くことも出来ない。

「ずっとそこに留まって。。。」おぞうたまの声に従うかのようにジッとしていた。

何かがある。。。気づくと同時に
「何か出てきた?」そうおっしゃられるおぞうたまの声。


「泉・・・泉のように私は感じますが・・・」


「では、その泉をじっと見ていて」


「泉はどうなりましたか?」


「私が泉です。」

見ていたはずの泉がいつのまにか私自身になっていた。


「イエスさまはおられますか?」おぞうたまが問われる。


「いいえ、いらっしゃいません。」


「では、イエスさまに来てくださいと祈って」

そう祈る。


「イエスさまは?」おぞうたまがおっしゃった瞬間だ。

エスさまの存在に気づいた!

そう、イエスさまは泉だった!!!


私はその泉でもあり、イエスさまに抱きかかえられるかのようにすでに包まれていた。


それは即、歓喜であり、湧き上がるような生命。
それそのものが私だった。


ここから見たこの世は、あまりにも希薄だ。
アクセクしながら、いつも不安の中で生きているこの世が、あまりにも遠く無関係だった。

人々はまるで違う世界の人だった。


あぁ。。。ここにずっといられたら!

エスさまがおられる、ここに。


私はふと日常生活の中の自分を思い出した。

「日常の中でもこうしていられるだろうか?無理なような気がする。
いつもアクセクしてばかりなのだから・・・。
でも、どうしたらずっとこの世界にいられるのだろう?」


その疑問にワークを勧めてくださった。


チャクラヒーリングの手法だ。


アクセクしている自分に注意を向けて、
あわせた両手を、胸、額、頭上の3箇所、それぞれにグルグルと廻して、一箇所を1分から3分ぐらいやって、
移動させる。


そうしていくと、アクセクしている自分の記憶がもうそうではなくなっていた。
無である、この世の元通りの姿になっている。



おぞうたまは「どう?さっき(イエスさまと共の場)の時との違いは?」と問われるので、
「テンションが下がっています。」と応える。


何か、違う。。。

せっかくあれほどまで興奮して喜びに湧いていたのが、
妙に静かで、悪くはないがいつも通りの感覚にしかなっていない。。。

あれ?日常であのままでいたいと思っていたはずなのに。。。


「何がそうさせたと思いますか?」おぞうたまが問われる。

「ワークです。」

「そう、ワークをしようとする前にこの世のことを思い出したでしょう?
そこでもう戻ってしまったのです。ワークはこの世のものです。」

これほどの違いを感じたのは初めてだった。

今まではワークで自分をいいポジションにつけることができていた。
ワークも使いながらの歩むことは必須だったのだ。

けれど、今回の場合は違う。ワークが歩む場を変えてしまうのだ。

この決定的な差、違いは、この道がこの世のものではないことにある。

これを実感として教えてくださったのだと知った。



モフのヒーリングをする時の体験。

モフは、彼自身が闇を見ているのと同時にモフは闇となり、
そのモフと一つである、ヒーリングしている私も闇である。

いつしか、モフはいなくなり、私もいなくなる。闇だけだ。

私はそこで光を呼び続ける。

光は必ずやってきてくださる。

そしてその光に留まり続ける。

この時の光、これと、さっき初めて体験した泉のあの場は違うものだった。
モフのヒーリングで訪れる光はこの世に届ける光であり、私はこの世でそれを見た。

おぞうたまがいなければ、外側の光は入らない。

触れてい続けたい光、浸っていたい光は、おぞうたまが掲げる光の中だ。
これこそがイエスさまのいらっしゃるところの光である。

これに触れ続けるにはどうしたらいいか?

おぞうたまより言葉をいただいた。

「それは「イエスさまの場に、もう自分はいる」と信じること。
そして「イエスさまの光がすでにある」と信じること。これである。」

これが信仰の始まり。

おぞうたまが掲げる光の中にいる。
その時、本当に新しくこの道を歩み始める。

そう、これが『信仰の道』であり、この道こそがイエスさまの道である。