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~ナザレのイエス~

認識者

寄生虫マインドが動き始めている。
 
表面で見えることではなく、その陰でそれらを動かしている何か、
実体を見ていかなくてはならないとセッションでおぞうたまから教えていただいた。
 
その日のことである。
 
おぞうたまの奥様が手鏡をカバンに入れようとして足を滑らせ、
2階から一階まで15、6段もある階段から一気に転げ落ちた。
 
幸い、今のところ骨折などの大きなケガは見受けられず、家で安静にしておられるとのことだった。
 
おぞうたまは伝えてくださった。
 
『手鏡、それは認識を意味するメタファーだ。
彼女は認識(手鏡)をナップサックに入れたところで
転がり落ちた。まっさかさまに下の下まで。
(ナップサックによって足元が見えなくなっていて足を踏み外した。)
 
認識とは光のことでもある。 
光のもとでの認識だけが意味を持つ。 
 
認識を手放してはいけない。
自分が何をしているのか、光の只中で見つめていなくては。

もしそうしないなら、そうできないなら落ちるしかない。
いまや寄生虫マインドは動き始めている。いままでとは違う動き方だ。
 
 

階段は道の歩みだ。

彼女がそこから落ちたのは、上昇ではなく落下を示唆するサインだ。

 
「階段」を「昇る」というのは道の歩みを示す時、私がよく使う比ゆだ。
またそこから「落ちる」ということも。

このところ巨大な、存在に関わるような何かがうごめき始めてることはわかっていた。
生死に関わるような何かのことだ。

マインドからの警告だ。
だが彼は彼女を守ってくれていた。
予断は許されないが。

そしてメッセージを残した。

危険ではあるが、ここは秘境学院。
ライフで起きることはレッスンだ。

今日いらっしゃった来談者がセッションに来る前に、
二回777をみたと来てそうそう玄関先で言っていた。

符合するサインだ。くぐりぬけなければ。』

 
驚きのあまり言葉がでなかった。。。
 
おぞうたまのライフに、こんなことが実際に起きているのだ。
 
この世が、寄生虫マインドが、いかなるものであるのかをまざまざと知らされる。
この世が牙を剥いている。刃はおぞうたまに向いている。
 
ーーーーーー
 
 
昨日(土曜)のことだった。
 
飼い猫のミーが、私の膝でゴロゴロ喉をならしていた。
 
ミーは先週の日曜にお腹の具合を悪くし血便が出ていたが、
今は改善に向かっている。
 
私は膝でくつろいでいるミーに、いつものように話しかけた。

「愛してるよ。お腹が良くなってくれて本当によかった。。。
心配したんだよ、本当にねー」

彼女の顔がいつもと違っていた。
とてもきれいな目をして、私を愛おしそうに見てくれるのだった。

瞬間、ピーちゃんを想い出した。

その時分かった。

彼女らは私の応援者なんだ!と。
気づいた途端に一気にひろがり、おぞうたまの奥様もそうだと、メンバーもそうだと気づいた。
 
静寂の中に現れた突然の気づきだった。
胸がジワジワと熱くなり、胸いっぱいに感謝があふれた。
 
一瞬現れたこの道の真実。
 
なんてこと!もう感謝しかない!
 
私の世界に現れているすべての存在に溢れんばかりの感謝を捧げた。
 
 
その時、洗濯機の終了音が鳴った。
 
私はその感激のままに動き出した。
 
洗濯機から洗濯物を出しながら、
なぜかおぞうたまからいただいてた私信の一部を思い返していた。

『OPは存在するのか?
OPの報告として記述された一切は虚構だ。
それは確かに何かの記述だが、それは時間言語で書かれている。

中身と包み。

中身について私は常々語っているが、
皆が注意を集中している中身はこの道においては重要じゃないと。

中身はマインドフーズだと以前は言っていた。
その中身を包むもの(光)こそが大事なのであって、
中身そのものではない。
中身はマインドが退屈しないようにあたえているのだ。

しかし、包みを認識するものがいない時、この議論は破綻する。
私はOPの時、この世の者ではなくなっていることが多いからだ。
私は例外なのだ。(認識者のうちには入らない。)


この世における認識者がいなければ、それは存在しないのではないか?

私が時間の外側から捉えるOPと彼らが捉え記述するOP。
何もかも別物なのだ。この見解にはわれながら驚かされる。

認識者が複数居て彼らが同意し合う時にのみ、現実(真実)は現実となる。
虚偽が同意される時も原理は同じ。それが同意する者たちにとって現実になる。』
 

初めてこれを目にした時、理解できなかった。
 
 
しかしその時、どこからともなく洞察がやってきた。
 
 
“おぞうたまの語ることを聴く以外に道はない。”
 
 
私は、時折この道における世界はどんな風に現れるのだろうと考えていた。
 
マインドが紡ぎ出す、すべては死によってゴールが決まっている地続きの時間世界。
それとは違うこの道の世界とは一体なんだろう?と思っていた。
 
 
この洞察は、おぞうたまの言葉と共にその答えを生み出してくれた。
 
 
認識者がいるとき、世界が生まれる。

その都度、その都度。

つまり、認識者は世界を創っている。
 
 
時間の世界は認識者によって創られている。
多くの人がそれに同意し、
今ではそれしかない確固たる現実としてそれ例外はありえないほど強固になっている。
それが、私の世界だ。
 
 
一方、この道の世界は今おぞうたまにのみある。
 
 
おぞうたまは、イエスさまの語られることの認識者でいらっしゃる。
 
エスさまが采配されるサインもおぞうたまにしか認識できず、
おぞうたましかイエスさまの光をもたらすことは出来ない。
 
マインドにイエスさまの言葉は入らない。

私たちはマインドでしかない。

けれど、おぞうたまのいる場所にいる時だけ、マインドでなくなる可能性が初めて生まれる。
その時だけ、私たちはおぞうたまからイエスさまの言葉を聴く耳を持つことが出来る。

おぞうたまはそれを光と共に、体験という形でもたらしてくださる。

語りやデモという分かりやすいカタチでされる事もあれば、
何もしていないのに、気づきとしてもたらしてくださることもある。

しかし、私たちはそれを認識しない。
自分(マインド)に籠もっていると、その体験(イエスさまの言葉)があっても意識されない。

たとえその場で意識できても、認識者として知覚することはとてつもなく難しい。
 
 
しかし、”おぞうたまの語ることを聴く以外に道はない”!!!
 
なぜならイエスさまの言葉を認識するのはおぞうたま以外におらず、
認識者がいるイエスさまの世界はおぞうたまのところにしかないからだ。
 
 
おぞうたまの語ることを聴かなくてはならない。
それ以外に道はなく、またそれ以外にこの道の世界は生まれない。
 
 
 
おぞうたまはイエスさまの言葉を認識する。

その認識者であるおぞうたまの世界に、イエスさまの世界が現れる。

その世界におられるおぞうたまの語ることをよく聴き、その認識者である者に、
おぞうたまの世界が現れる。
 
私たち第二ラインは認識者となることで、おぞうたまの世界の住人になる。

そして、おぞうたまの世界の住人になることは、
エスさまの世界の住人になることなのだ。
 
 

この洞察を与えられたことに、心から感謝している。


今まで、どうしても入ってこなかった。
おぞうたまが語ることが分からないと、なぜもっと分かるように話してくださらないのだろう?
とおぞうたまに不満を感じていた。

理解したくて質問する。
しかし質問をしても、別のことが語られることもある。

最終的に私の最初の質問を忘れてしまうこともある。

マインドとしては、これだからこれと理解したいのに、
スッキリしなくて、結局ウヤムヤになり質問前よりフラストレーションが余計に溜まることもある。
 
チャージが刺激されるような話だともっと顕著に現れる。

その時の私は、おぞうたまが悪い。おぞうたまがもっとこうしてくださればいいのにから始まり、
もしかしたら、おぞうたまは私を混乱させながら、
うまく言いくるめてこの道に乗せ、私を騙そうとしているのではないか?とまで飛躍する。

頭の中は、おぞうたまに、詐欺師、妄想狂の可能性を見ている。
私はおっかなびっくりおぞうたまの話を聞く。

余計に理解できない。

マインドは、理解出来ないことを排除しようとする。
なので、理解できない話をするおぞうたまは排除の対象者になる。

おぞうたまの元で教えを乞いながら、
まったく身勝手な酷い話だが、これが当然のように行われていた。
 
その時のマインドにはそれがおかしいとも知覚されず、
至極当然のことだと思っているのだから、気づきようもない。
 
マインドの隠されている意図は、それと一つになっている私を動かす。



いつからだったろうか?

知らない間に、おぞうたまは敵じゃないと思えるようになっていた。

おぞうたまの話を質問しながら聞くことが楽しくなっていた。

質問して別のことが語られても、不快になるのではなく、
一生懸命ついていこうとするようになった。

もっと話を広げて聴きたいと思えるようになっていた。

おぞうたまは必ず応えてくださる。
これがまた面白い。思ってもみない展開へと誘われる瞬間が生まれる。

こんな予想もつかない展開、こんな理解の仕方があるのか?!と、
息を呑む瞬間が起こるたびに、新しい世界が新しく生まれる。

新しい認識が起こるたびに、
私の世界がその都度、その都度、イエスさまの世界に創り変えられる。
 
この道はそうやって創り上げられていく。
 
この道こそリアルだ。