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~ナザレのイエス~

イマジネーターはわたしだ

イマジネーターが、この世の君である時、ここは今のまま。


何も変わらない。最後は死のみ。


~イマジネーターが、わたしである時、ここは神の国となる。


~あなたがイマジネーターであることを知らなくてはならない。


~命を置きなさい。


~わたしに命を預けなさい。


~わたしと共にいなさい。



~その時あなたはわたしとなる。わたしはあなたとなる。




彼の言葉が聴けたのなら、もうその言葉どおりになっている。


左隣に誰かがいる気配がした。


とたん、私全体が包まれていた。


ずっと、ナザレのイエスさまがいらっしゃる。


遠い彼の国にいるのではない。現に今ここにいらっしゃる。


広く、何処までも広い。。。そして、深い。


大きな懐に抱かれたまま、私は大きな安堵と共にいた。


そこから見るこの世のすべては遠く、消え入ってしまいそうだった。


さっきまであった問題も、喜びもすべてが遠い彼方の虚空に浮かぶ幻影だった。


その風景は、霧状に現れてはいてもすぐに立ち消えてしまう。


あるのは、
いつまでもある安堵とピタリと吸い付くかのような大いなる確かなものだけだった。


父。。。


これが父だと、初めて感じた。


父とは、こんなにも大きく、安堵をもたらしてくれるのか。。。


存在が圧倒的だ。
頼もしさ、身を寄せることしかできない私をここまでも大きく包み込んでくださる。



父よ。。。神よ。。。父なる神よ!!!


この世の父は、この世のものだ。
父であろうとしている者たちはいても、この父ではない。


父はここにいる!
すぐそばに、そしてこんなにも大きく私を見守っておられる。。。。




未来はどうなっていますか?おぞうたまの言葉に、未来を見る。


いいえ、未来はないです。


今はどうなっていますか?


今?今もないです。


”今という永遠”ですか?
 
 
それです。今という永遠。



では、永遠は、どうです?

永遠とも違うのです。
やはり、今という永遠がピッタリです。
 
”今という永遠”

不思議な言葉だ。

しかし、これがピッタリだった。



そこではすべてが見えるようだった。
この世は、鎖で幾重にも四方八方に封印された世界だ。

その中で、私の方が学びが深い、上だ下だといいながら、
スピリチュアルなゲームをしている者たち、
受験に失敗するのではないかと心労で倒れそうになる母親、
不食であることも、この世のゲームだ。

その中の人たちは、その外があることを知らない。
その中で、必死になって浄化しようとしている。

確かにその中では浄化され、キレイな状態になる。

けれど、その先は死で終わる。

最後は死すべきものとして、この世に朽ち果てる。。。


このことをよしとして、疑いもしないのは、何故だ?

そうであることを、そのままにして、嘆き苦しみ、
またそこに自ら飛び込むものたち。。。

この苦悩が見えないのか?

病気、老い、苦悩、痛み、死、

これらがあたりまえであるままでいることを本気で問い、
それをなんとかしようと、彼の門を叩き続ける人はいないのか?

彼しかいないのではないか?
ナザレのイエスさましか!

イマジネーターが他の何かにして、自分と分離させている以上、
私たちは永遠にこれに気づかない。

私がイマジネーターである。
私自身だ。


コントロールし続け、自分でなんとかできると、疑いもせず、
コントロールを手放さないでい続ける私こそが、イマジネーターだ。

その命を置きなさいと、彼はおっしゃる。
命を捨てるものはそれを得、命を守るものは、それを失う。。。

自らの命を守り、イマジネーターであり続けようとするのはもうやめよう。

彼が、ナザレのイエスさまがイマジネーターだ。


彼が導く。彼にすべてを委ねる。


彼しかいない。


ナザレのイエスさまの栄光のもとに集え!』


そうする朋らよ。


私たちがそうすることで、この世に磁場ができる。

それは神の国だ。

”彼は世に勝った”のだ。

この世に神の国は降りる。