愛と性に充たされたThe starry night
前置き:今回は、この作品が描き出している世界に参入してみようと思う。
(できるだけ大きな画面で見てみること。
ポケットに入るような縮小された画像では、硬直化したマインドは衝撃を受けない。)
言うまでもないだろうが、
ここで私は日常意識から知的な作品解説だけをしようというのではない。
最終目的はひとえにあなたの感性に、
渇き切ったその感性に泉の在処と水の飲み方を示したいのである。
さあ、私と一緒にこの作品世界に近づき、
できうるのであるなら、全存在でもって勇気を持って飛び込むことを意図してほしい。
「生ける水」はそこにあるのだから。
Ⅰ:開け放たれた夜の蒼穹(そうきゅう)には星々がきらめき生命の粒子を拡散している。
人々の喧騒は静かに眠り、「神秘の交合」を妨げるものはない。
ゴッホはこの超自然的世界の“自由”を、その有り様を奥行きと拡がりの中に、
鮮烈な色使いとタッチで描き出す。
黒々とした糸杉(イエスさまのかけられた十字架は糸杉で作られたという)は月影の中、天と地を結び、
このこと(十字架の秘儀)によってなべての被造物はすでにマリア空間によって清められている。
(イエス・キリストと自分を重ね合わせる傾向のあったゴッホは、直感的に天と地を和解させるキリストと、
この地を包み込むマリア・ミスティカを把握していた。)
そして大地の生命力であるゾーエは、
この夜に小賢しい人間どもの頭の先の計らいからすっかり解放され、
聖なる空間を与えられた。
命は天空へと舞い上がり、波打ち、巨大なうねりとなって「神秘な交合」を営んでいる。
ああ、何という“自由さ”だろう!
「大いなる現実」とは、これではないのか。
生命が今、悦んでいる。
Ⅱ:日常の人間意識は、倦み疲れている。
倦怠と無意味さ、それらを振り払うかのように、やるべき事の長いリストを握りしめ、
自らを追い立てる。来る日も来る日も。
さらにはそれが常習化してルーティーンなしにはいられなくなる。
これが生きることだと思い込む。
意識は、狭隘(きょうあい:面積が狭く、度量が小さいこと)化して、
時間の中の細々とした事柄、問題にのみ拘泥してしまう。
そこには意識の拡がりも輝きもない。
しかし、それをやめることはできない。地上から離れられない。
個人にとっては日常のみが、それを上手くやり遂げることだけが、重大なことだからだ。
しかし、例外が一つある。(観念ではない例外)
凡庸な我々に与えられた唯一の例外が手の届くところにある。
SEXである。
Ⅲ:周知のように、生命エネルギーは人間において性と結びついている。
肉体の快感や親密さと結びついている。
それゆえに興味を引きもするが反発も多い。
羨望、嫉妬、妄想、恐れ、罪悪感を喚起する。
人は多かれ少なかれ性に対してトラウマを抱え持っている。
劣等感を抱いている者も多い。
意識するしないに関わらず、未成熟さとトラウマを無害なものにするために
信じ込まれた不健全な信念の集合体が当人の性を支配する。
支配しているかのように見える。表面的には。
しかし・・・
(文明社会において、性犯罪は増加している。男を性犯罪に駆り立てているものは何か?
それも性の何かなのである。
戦争時にはどの国の男も女を犯す。理性は荒れ狂う力の前に吹き飛ぶ。
人類はこうした野蛮なやり方で民族の血を混ぜ合わせてきたのだ。人類はこうして生きてきたのだ。)
性は浄化されなくてはならない。未成熟は発達させられなくてはならない。
現状を維持するための表面的な信念はいらない。それは解決ではない。
我々は性について何を知っているのか?
ほとんど、何も知ってはいないのではないのか?
この事実に我々はコンフロント(直面すること)できるか。
Ⅳ:性はもっと美しいものになりうる。
未知なるものへと歩み出す勇気と導き、
そしてそれに基づく絶えざる訓練が泉の源泉へと通じる道の門を開く。
トラウマと未成熟の土台の上に構築された批判や判断は通交禁止の張り紙である。
(とは言え、良識を失ってはならない。)
まず自らの呼吸と繋がるためのインナー・ムービィング。
他者の呼吸と繋がるためのインター・ムービィング。
そして色濃いインター・ムービィングから世界へと、
自ずから放散されるアウター・ムービィングへとレッスンは行きつ戻りつなされる。
その長期間の過程において我々は何かを捉えるだろう。
(イエスさまは上記の三つのステップを次のように語っておられる。
①神の国はあなた方の中にある。②神の国はあなた方の間にある。③神の国はこの地上に拡がっている。と)
Ⅴ:芸術家は告げる。
なにか「未知なる力」が在るのだと。
退屈さのベールに閉ざされた日常の人間意識には
決して触れることのできない“リアリティー”が実在しているのだと。
ゴッホの『星月夜』はそれを開示している。
彼はベールに向こう側をたった一人で垣間見ている。
「生命ー世界」に見入り、それを捉えた。
一枚のキャンバス上に描いた。
我々は彼の残したこの一枚の絵によって、一つのヴィジョンを与えられたのだ。
汲み尽くすことはできないまでも、ここから学ぶことは凡人である我々にだって出来そうである。
Ⅵ:我々は巨大なエネルギーの貯蔵庫と接続できなくてはならない。
人は命(ゾーエ)に溢れているとき、互いに愛し合っているとき、
実在(リアリティー)を垣間見ることが許されるのだから。
その時、生命と世界と官能的なほどの生きた繋がりを持つだろう。
その時、その精神はもはや個人とは言えないであろう。
その時、人間の性は万物と共鳴し合い、
この世界を神秘な次元へと移行させる地上における一つの触媒となるだろう。
イエスさま、そうなりますように。