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~ナザレのイエス~

午前0時の光

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糸杉と星の見える道(実物はこれよりブルーが濃く、全体の色の深みが異彩を放っている)

 

今回はゴッホの最後の作品『糸杉と星の見える道』を取り上げる。

 

この作品には『The starry night』には描かれることのなかった

幾つかの形象(道や麦畑、山並み、そして二人の人影等)が一つに結び合わされ、

大きな意味をはらむ星座(ヴィジョンとそれが向かう方向)を

見せてくれていると思うからである。

 

ゴッホはこの絵の主題について、

ゴーギャンの『オリーブ山のキリスト』と同じだと言っている。

 

 

さて、私のつたない解説を読み進める前に、もう一度この絵をじっと見つめてみよう。

今、そうしてほしい。 

彼は何を語っているだろう。

 

 

 

~~~≪解説≫~~~

 

エス磔刑を象徴する巨大な糸杉が画面中央(中心)に置かれ、

それはさながら大地から燃え立つ深き死の影のように黒々とそびえている。

 

右上の月は優美な光をたたえ、

世界はマリア・ミスティカの抱擁の中に包まれていることを知らせる。

左上の輝く星はハギア・プネウマ(聖霊)の歌を響き渡らせているだろう。

道は世界に降りてきた光の粒子に照らし出されて、清流のように流れ動く。

 

この夜、「道」に在る二人の(農夫)(旅人)は

村の人たちに煩わされることなく何かを語らっているのだろう。

(村人は日々の生活に疲れ、家の中で寝静まっている。)

 

馬車を駆って先を急ぐ者と彼らの対比。

一方は時間に追われ、一方はそれから解き放たれ自由だ。

(馬車で行く者の空間は個人に閉ざされ、拡がりを持たない。)

 

この夜、「語らいの友」がいることは、何という恵みなのだろう。

夜に充ちる愛(天から降りてきた聖霊の光)には、友が不可欠なのである。

孤独だったゴッホはどれほどの憧れを持ってそういう友を欲したことだろう。

互いに繋がり、世界に開かれた友の存在を。

 

彼の心情が痛いほど伝わってくる。

 

 

 

遠くに見える青い山並み、その手前側には道に沿って麦畑がある。

 

「あなた方にからし種ほどの信仰があれば、

あの山に向かって”海に入れ”と言えばそうなる」と

エスさまは弟子たちに教えられた。

 

またイエスさまは彼の羊たちが全員集められる日(主の再臨の日)のことを

麦の収穫に喩えられた。

 

「その日、種を蒔いた者と収穫をする者たちが共に喜ぶ」

 

「あなた方は収穫の日まで、まだ4ヶ月のあると言っている

だが目を上げて見てみなさい。今や麦は収穫の時を待つばかりだ」

とおっしゃっている。

 

山並みと麦畑、この絵を描いていたゴッホの脳裏にあったのはこの状景である。

 

 

しかし世界はまだ夜である。

ゴッホの眼に糸杉はいまだ暗き影としてしか現れていない。

それは我々がイエスさまの磔を悲しみと死としか見ない

この世の眼差ししか持たないのと同じだろう。

 

そうではあっても、この夜は闇夜ではない。暗闇ではない。

月があり、星が歌う。道は照らし出され、そこには友がいる。

 

そして・・・

朝の光が差す時(主の再臨の日)、

糸杉はベールの向こうの真の姿を我々に明かし輝くだろう。