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~ナザレのイエス~

『互いに愛し合う』

 

ゾーエ。


おぞうたまはこれを『大地の生命エネルギー』だとおっしゃった。


大地。


あまりにも大きく、そして、私から切り離されている存在であることを初めて認識した。


大地とは、まさにこの土であり、海であり、

そこから生まれる生命すべてを包含している。


生きとし生けるすべての源。


自然界、性欲、情欲、


これをゾーエという。


ミノタウロスはゾーエの象徴である。

 

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あのピカソの描いたミノタウロスと少女には続きがある。

まさに少女がもつ光によってミノタウロスは闇に対して盲目になり、

少女がこの盲目のミノタウロスを導くのだ。


ピカソの描いたあの少女の光は、
ナザレのイエスさまの愛”であるとおぞうたまはおっしゃった。

少女のように無垢な存在が持つ彼からの愛とは、
ゾーエが闇に対して盲目になったその最初であり、導きなのだ。

盲目になったゾーエは、導かれるがままに進む。

そして、ミノタウロスは地上に現れる。

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このゾーエ、ミノタウロスは、この地上において人間たちと交わり、繋がる。


そして、新しい生命が生まれる。

この新しい生命は、いまだかつてこの地上にはなかったものだ。
よって、過去にはどこにも比べるものはない。

あるのは未来のみ。

しかも、常に更新され続け、見聞きした途端にそれは古い過去となるほどに新しい。


ソーエと繋がったとき、『過去ではない現実』が生まれ出る。

ゾーエの象徴であるミノタウロスは、新しい現実を生み出す大地の源。


判断のあるとき、新しいものは生まれない。
自然界と切り離された私のままでは、新しさなど現れようもない。


大地とは切り離されていることを初めて認識した私に、おぞうたまが経験を与えてくださった。


おぞうたまはいつも常にこの大地と繋がっている。

マリア空間の内でおぞうたまと繋がり、そのおぞうたまとなり、海を感じる。

「あぁ。。。水だ。」思わずつぶやいた。
海じゃない・・・水そのものになっている。

「では、その水の中で悠々と泳いでいる鯨を感じて。」おぞうたまの声がする。

鯨と呼ぶにはもう何かがおかしい感覚だった。
「圧倒されています。。。でもこれは私の知っているいわゆる鯨ではない。。」

「エネルギーですか?」

そう言われ、あぁ、エネルギーだと思ったが、それとも違う。
しかし、私はこれを表現する言葉をエネルギーとして表す意外に知らない。

「はい・・・エネルギーといえば、それですが、エネルギーでは古い。
これは私の知らない未知です。」

「私の常に感じている大地の生命エネルギーは、これです。
私はこの感覚を大地に、海に、またそこにいる生命たちに、感じているんです。
これが私の言う『互いに愛し合う』ことです。面白くはないですか?」

そうおっしゃるおぞうたまに、私は矢継ぎ早にこう応えていた。

「これなんですね!!!これが『互いに愛し合う』!
あぁ。。。すべての言葉が古くなっていきます。

互いに愛し合う、この言葉でさえ、そうできない私に与えられた言葉であって、
『互いに愛し合う』ことができるのなら、この言葉はもう古い言葉になってしまうんです。
本当にこの言葉が古くなっているんです!」

それは、私が過去に築いた互い愛し合うの崩壊だった。


おぞうたまの『互いに愛し合う』は、経験がすべてだった。

大地の生命エネルギーと繋がっている今、すべてが新しい現実へとシフトし続けている。


その状態で上昇し、また降りてくる。
そのたびに私の身体感覚が、ある時は15歳、ある時は18歳と更新し続ける経験が与えられたとき、
おぞうたまは「この新しい現実では、あなたはその歳なんですよ。何も決まっていない。」
そうおっしゃられた。

身体の張り、沸いてくるエネルギー感覚、充満する身体の躍動感。
私の身体感覚は間違いなく15歳であり、18歳だった。

私はかつて、世界線の移動という言葉で、
世界の更新を表されたおぞうたまの言葉を覚えている。

ある時は、娘が駅の自転車置き場の柵にワイヤー錠で自転車とくくりつけておいた
自転車が帰ってきたら移動していたと聞いて驚いた経験がある。

娘にそれって本当に移動したの?記憶違いでなく?と聞き返すと、
絶対間違いない。朝と違う場所に自転車が柵に鍵がくくりつけられたままあった。
とハッキリ言ったのだ。

通常はその変化に気づくことなく、そのまま彼女自身も更新されるのだが、
その時はきっと私に更新されたことが気づけるようにこの現実が現れたのだと思った。


今となっては、互いに愛し合うたびに、ナザレのイエスさまの愛がこの地に降り、
マリア空間にいるすべて、いや、大地に愛が広がり、その都度更新される。

世界線の移動は常に起こり続けている。

なにも決まっていない。
決まっていないものをこうだと決め付けるすべての判断や信念は、過去のものだ。

すべてにフィアットする。

現れた現実に「そうであるように。。。」と心を開き、受け入れる。

かつてあった、あがきも、否定も、そうであるのなら、
「そうであるように。。。」とそのままにしておく。

自分の判断が判断であることが分かったのなら、それをしないようにするんじゃなくて、
そのまま保留にしておき、『互いに愛し合う』

判断していることが分かっていなくて、
それをそのままスルーしてしまっていても、それを突き詰めるんじゃなくて、
そのまま保留にしておき、『互いに愛し合う』


言葉は、古い。
それをつかさどる思考も古い。

この新しい現実の前に、すべてが古くもろく崩れる。

 

過去。
信念や判断、言葉や思考はそれに戻ろうとする試みであり、それは闇だ。
その闇に対して盲目的でなければ、新しさは現れようもない。

 

唯一、経験に対して一心不乱であること。

マリア空間の中、ゾーエに触れ続け、繋がり、そこに留まり続ける。

これがおぞうたまのおっしゃる『互いに愛し合う』
新しい現実での生き方だ。

 

光の道はその途上に常に新しく現れる。