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~ナザレのイエス~

大いなる現実

 

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ジョルジョ・デ・キリコ「通りの神秘と憂愁」

 

 

この世界はある。

これは、絵が描かれたのではなく、意識(世界)がそのまま映し出されている。

本物、リアルだ。

第二の注意力。それこそが世界だ。それこそが、リアリティ、現実だ。

影の世界。

この絵は、絵ではない。

このリアリティの世界、そのものだ。

おぞうたまはおっしゃった。

「このキリコの世界は“真の客観世界”を映し出している。
そこは実にリアルだが、と同時に架空の世界であることも分かる明晰さがある。
これは明晰夢だ。これはこの世界のことであって、この道とは関係がないが、
私たちはここを通り進む。」


そして、この世界へと誘われた。



ニャーちゃんがいた。

ポッカリと空いている穴のようだ。

私もそれだった。

時計を見た。

止まっている。

私も止まっている。

コップを見た。

浮き出ているようだった。

私もそれだった。

座布団をみた。

そこにあった。

私もあった。


部屋中を見渡した。

浸透する静寂。

場が、落ち着きを払って存在している。

見ているものはいない。見られているものだけだ。
見ているのは、場だ。
そして、見られているのも場だ。

自らが自らを見ている。
世界が、世界を内側から見ている。

色彩も濃く、こんなにもリアルな世界。
しかも、これが幻想であることが分かる。

この世界は、すべての存在たちが融合した意識の世界だ。


『大いなる現実』(あるがままの世界)
本物のリアリティの世界。

キリコの画像をその場で見返す。
融合している。。。画像ではない、絵でもない、この場そのものである。

さらに、おぞうたまがいるこの場は、すべてが愛で繋がっていた。

改めてニャーちゃんを見た。

リアリティの世界の住人、ニャーちゃんがいた。

息づかいまで直に伝わってくる。

あぁ。。。生きている!
艶めかしくきらめいている。。。愛おしい。。。

生命は、こんなにも美しい。。。

“そのままであっていい”

その場がそのままに存在している。

時計の音、鳥のさえずり、あらゆる音という音が融合している。

愛。。。愛が充満している。。。

おぞうたまのいる世界、光のある世界は本物のリアルな世界に、
愛が浸透している。



合意の世界。頭の中の世界。

今まで住んでいたところは、ドコなのだ?

どこにもない。。。

おぞうたまがおっしゃった。

「ここには、生命がある。存在している。合意世界は、頭の中だけの世界だ。
誰も存在していない。」

今までいたと思っていた、存在していると思っていた世界が、
「私:自我」の中にいたんだと“初めて”気づいた。

これは、衝撃だ。
頭の中にいるということがどういうことなのかを、
合意世界にいないところで実感したのだ。

これは、これまでにない。

今までいた世界。
そこは、誰一人いない、孤独な、切り離された自我の世界だ。


急に身体が固くなった。
首筋からキューっと強張りはじめ、次々と身体が固さを増してきた。

気づいた時には、すっかり元の世界、頭の世界に戻っていた。

「この(リアリティの)世界にいるには、エネルギーがいる。」おぞうたまがおっしゃった。

ここは、合意世界だ。判断がある世界。

すべてが切り離され、私は孤立した。

主体と客体が生まれ、さっきまで繋がっていたすべてがただの物と化した。
それらは、観ている映像にしかすぎない。
空虚でカスカスで、現実味がない。

あのリアリティを知った今、この世界はあまりにも薄っぺらい。。。