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~ナザレのイエス~

この世を愛する

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~この世を愛しなさい

はっきりと聞こえたわけではないが、この言葉が浮かんできた
と同時に感じたのは、それがもうすでにできている感覚だった

その時この世は、私と別のものでなく、私を通して生まれてくる全てのようだった
それらは、とても愛おしかった

その感覚は浮かんで、すぐに消えた

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若者の間で流行っているSNSのイジメの記事を読んだ時のいたたまれなさを
この時の体験を思い出しながらおぞうたまに話した

「それでも、イエスさまはこの世を愛しなさいとおっしゃるのですよね?」

おぞうたまはこうおっしゃった
「現代では、苦しんでいることはやることじゃないのだと、
さっさとその苦しみを無しにしようとする

しかし、彼がいた当時の人々はそうではなかった
苦しみに喘いでいる人々は、本当に神に祈るしかなかった
どうしようもない苦しみにうめくように神に祈った
元々、祈りとは、そういうものだったのです

彼はそのうめきを聴き、来られた

そして彼の弟子たちは、イエスさまに方向が定まった上で苦しんだ

伝道に行って、教えを伝える途上でいろんな困難にあう
彼らにとって、それは命懸けのことだったのです
それらの困難、苦しみを彼らは感じながらイエスさまに祈った

さらに、イエスさまはその苦しみを感じ抜き、愛する事を弟子たちに促した

彼の言うこの世を愛するとは、途方もないことなのです

自分の思い通りに好きなことをして、この世を愛するのではない
キレイな風景を眺め、この世を愛するのではない
自分の好きなものだけを選んでこの世を愛するのではない

この世のすべての苦しみを通り、そこを突き抜けて、愛するのです」

おぞうたまはよくこうおっしゃる
「愛しているのなら感じ抜きなさい」
「愛しているのならできるはずだ」

それは、その対象だけのことではなく、すべてこの世に掛ける愛だったのだ

原点回帰はそのためのツール


また原点回帰は、問題解決のためだけではないことも教えていただいた

「(イエスさまとは何か?)
こう自問し、そこから現れてくる原因体を感じ抜く過程であらゆる信念が出てきては消える
彼を自分の観念でこうだと決めつけていたものがなくなっただけ、彼に近づく

まず、問いかけが近づかせる
さらに注意を向けた分だけ、だんだん彼に似てくる

彼をいつも感じるようにしよう

例えば、ご飯を食べる時、「イエスさまもいかがですか?」と話しかける
その時、彼は一緒にいるだろう
たとえ言い忘れても、自分を責めない
言い忘れたことを思い出した、その時、彼を思い出している
その時、彼は笑っているだろう」


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これは一年前に探求時の記録として書いたものです。

驚きました。。。

今、これを読むと、まるで今の為に書かれているかのように思えました。

今のOPでは、
「原点回帰ではなく、感じ見る意識で現象を丁寧に味わいイエスさまにお渡しするということと、
ヒーリングの実践が原点回帰に取って代わり、特にヒーリングが主になっている。

しかし感じることも大事であり、思考であれこれ思うというのではなくて感じてみなさい、
感じなくてはわからない領域のことがあるのだと教えている。」

と、おぞうたまよりお聞きしました。

私も同じです。

この時していた原点回帰が、感じ見ることへと進化し、
そして何より、イエスさまへとお渡しすることが出来る。

今は自分の為でなく、この世を愛することとして与えられている。

ヒーリングもそうです。


エスさまにベクトルが向かった時、
この世の不条理さに直面し、うめきながらも、感じ見る、そしてイエスさまにお渡しする。
この世のすべてを糧として租借する。

これが、この世を愛することだった!と、今になって分かるのです。

『彼の言うこの世を愛するとは、途方もないことなのです』

このおぞうたまの言葉。
また一つ、少しだけ深まったように思います。


おぞうたまが、『この世を愛する』ことについて、
さらに言及してくださいました。


『ポイントは、

この世を愛することに例外を設けない。
よきこともあしきことも重大なことも些細なことも、
何もかもが美しくなるまで、愛し続けよう。
両手で抱きしめてその胸で感じるのだ。

光があるのだからそうできる。
(時間の終わりまで我々が到達すればきっとそうなる。そうなるのだ。)

そういうことだと私は思う。
(私自身十分にはできない。けれど、そうしたいといつだって思ってる。

これは嘘ではない。)

 

あなたが前に洞察したように、苦しんだ者たちはみな応援者だ。
それと同じだけ我々をを苦しめたものも応援者なのだ。

このことが分かることこそこの世を愛することなのだ。

まったく愛するとは途方もないことだ。』


マインドに侵された個人であっても、
光に照らされ、この道を一歩一歩歩む上で、

ここまでこの世を愛することを私たちは赦されている。

 

この道の愛の途方もなさを前に、私は自らを明け渡し、謙虚にならざるを得ない。。。