救い
ナザレのイエスさまの光がもたらすものは個人が願うものではない。
『娘の死が怖いからOPに集うというのは
娘を死から守ってくれるのはここしかない。
なんの思い煩いもなく、娘が微笑んでずっと、永遠にいられるところ
それは、イエス様のところしかない・・・。
イエスさまのところでないと、この安心は無い
他のところではない。そう考えているんです』(その辺の人)
この道は、娘さんの死を護る為のものではない。
イエスさまがもたらす永遠のいのちは、私が永遠のいのちを得るのではない。
私がなくなった時、永遠のいのちを得る。
イエスさまを信じるものは、死んでも死なない。
死んでいようが、生きていようが、イエスさまを信じる者たちは、
すでにイエスさまの元にいる。
この道の愛がある。
私が愛するのではない。私がなくなった時、愛している。
それがこの道の愛だ。
このことは、光の元で聞く事が出来る者には分かる。
その者には光が通っているからだ。
たとえ今すぐに分からなくとも、いずれ分かるようになる。
しかし、マインドが聞いたら、これほど怪しくうさん臭い言葉はない。
この道は救いのためにある。
ここは真っ暗だ。それを一瞥した時、初めて人は光を求める。
生命がないことを一瞥した時、初めて生命を求める。
私は私自身を観た。真っ暗だった、何もない。
空っぽとも違う。空っぽと認識する器もない。。。
他者にもそれを見る。
真っ暗闇、無、決定的な無・意味だ。
これを認めることはマインドにとって、底なしの恐怖だ。
しかし、この暗闇を一瞬でも見たのなら、その時初めて救いを求める。
救いとは、この世からの救いであり、私からの救いでもある。
この道は、私を形成するすべて、この根本からの救いの道である。