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~ナザレのイエス~

イエスさまの愛

子どもが探し物をしていて、母親になかったかどうか尋ねる。
母親はそれに応えないで「だからいつも片付けなさいと言っているでしょ!」と返す。
これに対して子どもは気分を害する。

Aの問いにはAで応える。
「○○知らない?ないんだけど」「お母さん、知らないわよ。」それだけ。

これで、いざこざは起きない。
それには、子どもの言葉に引っかからないぐらいチャージ処理が必要だ。
こちら側にチャージがない時、子どもも母親の返答に引っかからない。
ワークでは、これをする。


しかし、この道はそれだけではない。
Aの問いにはAで応える。だけでは足らないマインドの層がある。
もっと深く入らなければ、自分を知る事はできない。


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デモンストレーション

『人は反応する生き物だ。』


手と手をあわせ、教授が私の手を押そうとすると、私は倒れまいとして反応して押し返す。
これが反応。

マインドはこういう構造である。


しかし、おぞうたまは私に反応させないで私の手を押す事ができる。


その時、おぞうたまは押すぞと思わないで押す。
そして私と一つになっている。
その時、私は反応することなく、押されたままになる。

 


人は反応する生き物だから、他者に影響を受けないではいられない。

他者が隠された意図をもって、私に関われば、私はその隠された意図に反応する。

 

OPメンバーはなぜその辺の人を避けようとするのか?

彼女の中にある敵意に反応してそうなってしまう。

これは彼女の中にある敵意だ。
彼女は自分にも他者にも敵意をもっている。


ある人格障害者は、他者を怒っている人だと見ると、その他者が本当に怒り出すようになってしまう。
それぐらいパワーがある。

(DVの人ばかりが交際相手となるパターンの人の中にも、それはある。
つまり、被害者である自分が加害者を作っているのだ)


普通は、自分を他者に投影して見ることはあっても、それは主観的なもので、
その他者が本当にそうなってしまうことはない。

しかし、その辺の人が自分以外の他者を敵として観ていたら、皆は敵になる。
他者を愛さないとして観ていたら、皆はその辺の人を愛さない。


それだけのこと。
そして、これはマインドのことだ。


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おぞうたまの話

想像してみよう。

あなたの父親はスイスの銀行員。
インテリで、家は裕福だ。

その父親とあなたは野生動物の保護にも関心を持っていた。
そしてある時、アフリカの野生動物保護区域に行く機会があった。

二人は意気揚々とガイドに着いて、あちらこちらを廻る。

その時、ガイドが絶滅危惧種の動物のウンコを拾ってきて、
「触って臭いをかいでみて下さい。これが絶滅危惧に瀕した動物のものですよ。」と言われる。

二人は「おーーー、これが!」と興味深げにそうする。


しかし、どうだろうか。
もしこれが、「ガイドの家で飼っている犬のウンコですよ。触って臭いをかいでみて下さい。」と言われたら?
あなたは触って臭いを嗅ぎますか?


いやぁ。。。。嫌だ!絶対触んない!私はとっさに思った。


野生の絶滅危惧種のウンコを手のひらにのせて臭いを嗅ぐのは出来ても、
飼い犬のウンコはとてもイヤで出来ない。


なぜだろう?
この違いがなぜあるのか?私は興味を持った。


野生と文明の二分が私たちにこの違いを生み出したとおぞうたまはおっしゃる。
マインドは二分に分けてそのどちらか一方に嫌悪を置く。
そのような構造を持つ。

これはマインドの構造の一つだ。


私たちはそれに操られている。
ポジティブな思い、また我慢して嫌悪をなくすことはできない。


しかし、教授が空間を変えるとどちらのウンコもイヤじゃなくなった。


おぞうたまはその空間を愛だとおっしゃった。
その時、手にあったウンコは野生のものでも文明のものでもなかった。
私はマインドの構造を超えたところに位置していた。

そうなれるのだ。希望はある。

この道はそれを越えられる。


エスさまの愛がある空間では、
先ほどの文明のウンコですら、嫌悪感がなくなった。

マインドではどうしようもない生理的な嫌悪感も消えたのだ。


彼の愛はカタチをもたない。
だから、ぶつかり合う事もない。


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7月の初めに夢を観た。


私は妊婦だった。

私は飛行機に乗ろうとしていた。

空港に犬が入ったゲージがたくさん置いてあった。

それを見た私は自分が犬を忘れていたことに気づいて、
すぐ取りに戻ろうと自転車を走らせた。


しかし、こいでいる自転車の前方に昔務めていた会社の上司がいて、ペダルが重い。。。
その上司がなにやら私に話しかけてきてうるさい。。。


そこで終わりました。


教授はおっしゃいました。
「犬は忠誠の象徴です。あなたはその忠誠心をとりに戻った。
あとは飛行機の離陸に間に合うかどうかだ。」


ここでいう私とは個人ではありません。
第二ラインなのです。

 

 

これは8月3日にいただいていたおぞうたまの言葉です。

(このお方が投稿を訂正したものを新しく投稿としても出来ない、
やっと出来たら何故か訂正前の投稿になっていたので変えたいから、
今投稿してあるものを消去してほしいと依頼されてきたメールを受けてのことです。)

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「・・・書き直す前文が投稿されていました。」(このお方)

胎動が起きている。
古い領域から新しい領域へと。
だが力の拮抗はまだ勝敗を決していない。
どう転ぶのか誰にもわからない。
(ここにいう勝敗は時間の中の短期の1サイクルのことだ。
だが時間の終わりとしての最終結果はすでに決まっている。)

わかるのは自己の誠意が事実として貫かれているかという
隠しようのない認識だ。もはや自己に隠し立てをすることはできないのだ。

よきこともわるきことことも表に現れるだろう。
彼がその印を持ってわれ等を導く。
投稿、出来事、ヒーリング・・・それらに対し如何に向うか、
それがあなたの誠意である。彼はそれを見つめておられる。

赦しながら刻々と、あなたの選択と動きを見つめておられる。

だから小さくとも、目の前のステップを一つまた一つと越えて行こう。


・・・私がこのように書き送れる相手は、
本来は光に覆われた世界に根ざし、道をよろこぶ生きる仲間にだ。
いまだ古き世界に住む者には、別の言葉が語られる。

それはショック!

この世はどういうところなのかね?
尊大ぶってるきみは何者なのだい?

真実を知りたいかね?

もしそうなら見せてあげよう。

 

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~わたしの愛に留まりなさい

~わたしの愛にカタチはない

~あなた方の愛は固有のものだ


~わたしの愛に留まる時、あなた方は愛なのだ

 

 


エスさまの愛ははるかに大きい。

エスさまの国では、彼の愛だけがある。
そしてそこで安心して愛として存在する。


そこでの関わりは、こことは全く違う。
ぶつかり合う事がない。


反応によって生きているのではない。
反応しないで愛が生きる。


なぜなら、そこにはイエスさまの愛が充満しているからだ。


おぞうたまの言葉です。

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形の無い愛はぶつかることが無い。
形あるものは、それが愛であっても必ずぶつかり合う。

愛は対象をもたない。
響き渡る空間のようなものだ。


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