peer

~ナザレのイエス~

光が生きる

以前、おぞうたまがおっしゃってくださった言葉があります。

「光を方を向く、そしてSである私たちに光が差し込むと、
S(私たち)が光となり、”光が生きる”ようになる」
(peer記事:マインドマンより)

”光が生きる”

私はこの光が生きるイメージを何回も知覚していたのですが、
見ようとしていなかったことに気づきました。


経緯はこうでした。


私は知っているということ、このことを正直に話す。

しかし、意識出来ることは、表層のことで、
自尊心や遠慮などで、あえて今それを話すことをしない、隠すという意図を持っている”知っている”と、
意識的には気づいてない、けれど”知っている”がある。

後者の”知っている”は、導き手がないと、自分では気づけない。

マインドはその表層ばかりに気を取られ、
それが正直に話された”知っている”ことであると信じて疑わないからだ。

私のことを例として挙げる。

私は探求に費やす時間を減らしたいと思った。
理由はさまざまである。

時間がない、やりたいことがやれないなど、暮らしが疎かになるなど、さまざまだった。

そのことを話したが、一向に軽くならない。

では、他にあるか?と自問しても見つからない。

そんな時、それは「光を拒否する」ことだとヒントをいただいた。

光を拒否。。。光の遮断より強い言葉だった。

その言葉から浮かぶことがあった。

あぁ。。。死だ。。。

ピーちゃんの死を受け、私は変わることができた。
この道へと自ら進むこと選択した。

けれど、もし命にかかわるほどのショックでしか、この道を歩めないのだとしたら、
サインが起こるたびに誰かが、愛する者がなくなるのは、もうこんなのは御免だ。。。

もう一つは、いつも同じ生活が続くのなら、この逃げ場のない世界から消えてなくなりたい。。。
私は死にたいと思っていた。

私は死に固執していた。
最初のもう死を見るのはイヤだという思い(死の拒絶)、次のはもう死んでしまいたい(死の渇望)。
この葛藤があった。

それに気づけた。


おぞうたまよりこの二つの統合のワークを進められ、両手を合わせじっと感じた。

処理をした後、手のひらを広げ、そこに見たものが、
私自身も愛する者たちも光の中でキラキラと輝き生きている姿だった。


おぞうたまが問いかけてくださった。
「光の方を向いて、この道を歩むことで、あなたが望むことは何ですか?」

私は先ほど見たもの、そのままの姿を思い出していた。

「はい、”生きている”ということです。
それは私が生きているのではなく、ソレが生きている。。。
ソレとは、私も含めた愛する者たち、その場、そのすべてです。」


おぞうたまが補足してくださった。「ソレ、とは光ですね?」

そうだった。これが光ということ!
私がさっき話した”生きている”、これが『光が生きる』ということなんだ!

初めて入った。

先ほどの手の平に現れたイメージは何度も知覚していたものだった。
しかし、今までそれを見ようとしていなかった。

私は死に囚われていた。

私は知っていた。自分が死に囚われていたことを。
そして、光がもたらすものが何であるのかを。

けれど、私は死を選択していた。

表層では、いろんな理由が挙げられ、これが原因だからです。と思っている。
けれど、その背後あったのは死だった。
私の後ろで糸を引いていたのは、死だった。

このことは、光があるから気づけた。

光がなければ、偶然の法則によってそのまま私は死ぬだけだ。
けれど、光がある時、初めてそうではない道が開ける。


光に向かうことが、生きていることである。
それ以外は、生きているように見えても死んでいる。

死に向かっているだけだ。



この洞察から、私は光に完全に向くことが促されていたことが分かった。

数日前にサインが起こっていたのだ。

私は庭の草取りをしていて、蜂に7カ所刺された。
サインであることは分かっていたけれど、その意味をとることはできなかった。

後日、おぞうたまよりそのサインについていろいろとお聞きすることができた。

7という数字は完全を意味する。
つまり、完全に光の方を向くようにという意味合いが一つ。
そして、蜂(ハチ)は忠犬ハチ公のハチから、忠誠心を注入されたこと。
また、蜂毒には若返りも効果もあり、ある部族の長老が定期的に蜂針を使って自分の身体に自ら刺すことをしていること。

ネットで調べたら、死者も蘇らせる説まであることが分かった。


忠誠心、私は赤く腫れ上がった患部を見る度にこのことを思い出す。
カユミは、私を揺さぶり、熱を持った患部に触れる度に、エネルギーを感じる。

身体的にはとても痛く、派手なサインだった。

けれど、いろんな象徴が込められたこのサインを今は肯定的に受け止めている。

必要だったのだ。



私は皆さんにもこのことを知ってもらいたいと思います。

先日のOPで皆さんも光に覆われていることを知りました。
光が在る時、初めて選択できるようになります。

光がなければ、偶然の法則に運を決められます。
けれど、光がある今、私たちには何をするのかを決めれます。
自由意志を与えられているのです。

しかし、その選択には時間が左右されます。

ある選択には、光への最速の道が用意され、
ある選択には、長い道のりが用意されるのです。

それを選ぶのは自分です。

そこで、ただのおばさんのシェアで一部訂正しておかなければならない箇所があります。

>私達が何を選択し、どうするか、全てイエスさまが決めておられる。


この部分は間違いです。イエスさまが決めておられるのではありません。
選択するのは本人です。


私が『生活(ライフ)』の記事の中で

『あなたは生活の中で選択をする
けれど、その選択一つもナザレのイエスさまの導きだ

すべてはナザレのイエスさまの導きの下で計らわれている
それはこの地上において光が覆っていることに他ならない』

と書いたのですが、ここが難しくて、
光が覆っている世界では自由意志は与えられていて、
たとえ一見、光に背く選択も、実はその人にとって必要なことであるかもしれない。

その意味で、彼の導きなのですが、
私たちが決めたことが、彼が決めたことということになってしまうとは違うのです。

光に覆われた私たちの世界は、イエスさまに導かれます。
状況は与えられますが、選択する、決めるのはその本人以外はありえない。


そして、その選択には時間が関係してきます。

時間の世界に住み寿命を持つ私たちからすれば、時間の長短は文字通り死活問題です。
しかし、時間のない世界のイエスさまにとって、時間という概念はありません。
彼の導きはその中で行なわれているので、導きだからといつまでも光から顔を背けていたら、
時間はどんどん積み重ねられ、いつしかタイムアウトが起きます。


おぞうたまはおっしゃいます。

「人は選択によって時間世界に長く留まるのか、最短距離で進むのかを決める。
光を選ぶ時、時間は節約される。

それがさらに極まるなら、もう人は選択なしに生きる。
光が生きる時、人は選択からも自由になる。
その姿は犬が決して飼い主から離れないように、イエスさまと離れずに一緒に永遠に踊っている。
それが忠誠心である。」


光があるうちに、光の道を歩みましょう。

今皆さんはOPの中で光と共にいます。
ここから光に向かうレッスンを始めることができるのです。



それから、小僧さんのシェアにありました、お金の話の一部に気になる箇所があります。


>お金の葛藤と算段は続いていた。
>ふっきれない、この世の縛り。
>このことが、一瞬にしてその縛りの無意味さを教えてくれていると私の世界は動いた。
>3000円が、3億円であってもいい。

>この不思議な出来事はこれから、きっと頻繁に私たちに起きてくる。
>その予兆として、サインとして現れた。
>サインをサインとして、真っ正面から受け止める。」


この文章からは、このサインが良き事が頻繁に訪れる予兆として現れたと取れるのですが、

このようなサインが起きるのは、道を歩んでる者が、
「お金の葛藤と算段」にこころを奪われているからに過ぎないということを忘れてはなりません。

お金のサインが現れたのは、
お金によって動けなくなっているから現れ、その人を揺り動かすのです。

以前、旦那さんが会計時に出したはずの千円が消えたことがありました。

つまり、このことのサインは、お金のことすらもイエスさまが司ることを示しているのです。


この道はこの世のことではありません。

この世をより良くする為にあるのではなく、むしろ、この世の執着がなくなる。
この世のことに引っかからなくなる、気にならなくなるのです。

お金に自意識が結びつかなくなり、
裕福になることもならないことも気に留めず、お金の心配もなくなり、
実際面においてもお金に困らなくなる。


それがこの道です。


光に向かう、光の道を歩む、このことを行動に表します。

光とこの地の接点はおぞうたまです

〈ponnojiの宣言〉
『私はこれから毎日、他のヒーリングとは別に、
おぞうたまのヒーリングを1日一時間以上やっていきます。』

この地に光がもたらされますように。。。