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~ナザレのイエス~

生ける水

モフモフにまつわるサインが語られてからしばらくして、
おぞうたまが私に宛て送ってくださった言葉があります。

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マトリックス、という映画がある。

モーフィアスがネオに言った。
「ここに2つの薬がある。赤い薬は、真実を知る薬だ。
青い薬を飲むと、すべてを忘れ、もとの世界に戻る。 
さぁ、ネオ、どっちを選ぶのかね。 赤い薬か、青い薬か・・・」 

緑のソーダと赤いソーダ
これを見た時、マトリックスを思い出した。

配信では、緑を前進、赤を止まると書いたが、
色などはどっちでもいい。

今回のサインは決定的な選択を意味したのだから。

赤いソーダの鮮やかさに見とれた時、彼の血のようだと思った。
緑のソーダは命が蘇るようなみずみずしさだった。

飲まなくては。
脱水症状のままでは死んでしまう。
観念に侵された者たちは頭(マインド)の中にだけ生きていて、
生身の愛に触れることなく死に至るまで世の夢を見続ける。


彼の与えるいのちの水を飲み干そう。
救世主の存在を信じるあの黒人モーフィアスは
ぼくにとってはもふもふだ。

モーフィアスとモフモフ、どこか似ているだろう?


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前回のOPで皆さんがライフを選んだとありました。
あれから一週間が経ちました。

私たち第二ラインとモフモフの危険を察知したおぞうたまから一報をいただき、
そこから私たちは、実践的にライフから愛を学ぶレッスンへと導かれました。

おぞうたまは初めて第二ラインが動いたとおっしゃいました。

しかしこれは始まりの始まりでした。
モフモフのグルグル廻る行動はまだ続いていたからです。

これを受け、私はこのサインがなぜ起こるのかを考えていました。

モフモフはイエスさまから与えられた。。。

グルグルと廻り続けるモフモフ。。。
脱水症状や熱中症の症状が疑われたモフモフ。。。


モフモフは私たちだ。

同じところを廻り続ける私。
脱水症状になるまで、生ける水を飲まない私。

なぜ飲まない?
なぜ廻り続ける?

なぜ、死を選ぶ?

私(たち)は何が足らない?



はたと気づきました。

渇望だ!

エスさまが与えて下さる「いのちの水」「永遠のいのち」へ、
底から湧き上がるほどの渇望がないのだ!

渇きに気づかないから飲まない、そして同じところを何度も廻る。
私たちはこのまま死んでしまう。そして愛するものたちもすべて死ぬ。
あまりにも普通のこととして死がある。

私たちはとっくに絶望し、露骨に諦めている。

始源人が死と一つであったのとは違う、
見たくないと排除した分離した死が私を覆っていることに気づけない。
 
気づけないから渇きもない。

そして、気づきのないところには、新しいものもない。
すべて知っていることばかりだ。。。

マインドは変化を嫌う。
新しいものも、すべてを既知のものへと当てはめてしまう。。。
 
一つひとつが新しく語られるおぞうたまの言葉も、
既存の枠組みに納められ、新しく入ることがない。

そんな私がどうしたら、死に動かされていることを知る事ができるのだろうか?
 
この難問に取り組もうとする私におぞうたまはおっしゃった。


「非二元的意識となってイエスさまの言葉に留まることだ。
 (*非二元的意識:「思考は私である」と気づいている意識のこと)

『あなたは愛なのだ』
 
彼の言葉には力がある。

彼の言葉に留まる時、私と彼の言葉は別ものではない。
その私が与えられたライフを生きるのだ。
 
何をマインドが語ろうともマインドは放っておく。
彼の言葉に留まること。
その時、自動的にマインドは浄化されるのだ。」


浄化されたマインドは渇いていることにまず気づく。
そして渇望が始まる。いのちの水を!と心の底から渇望する。
 
私たちは彼の言葉に留まることから始める。


おぞうたまはおっしゃいます。

「渇望とは、砂漠で水を渇望するようなものだ。
生ける水は、その砂漠の岩の下に湧き出ている”いのちの水”なのだ。」


私は生ける水を飲むことについて質問をしました。
「生ける水を飲むとは、例えば私たちがどういうことをするということなのですか?」

おぞうたまはこうおっしゃいました。
「”生ける水を飲む”とは、例えばこういうことと並べても分からない、知りえない。
言い尽くせるものではない。

”生ける水を飲む”
しいて言うのなら、もう愛する者も自分も死ぬ事はないのだと分かり、
そのことが安堵をもたらすということだ。」

あぁ。。。そういうことなのだ。。。

聴いた瞬間に入ってきた。それ以上説明を求めることは一つもなかった。

私はそれを理解した。
 


エスさまの道のエッセンスを理解することは難しい。
けれど、彼が導く中で、私たちは彼の道を理解する。

精霊は場を整え、必要な時に必要な手段で私たちに必要なことを伝えてくださる。

私はこのことの幸運に心からの感謝を捧げるのです。
 
 
 



ライフを選び、日々愛を学ぶ道を歩む皆さんに、
私信でいただいていたおぞうたまの言葉を捧げます。
 

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我々は状況の中にいる。全体を見渡すことはできない。
さまざまな要素(それが偶然であっても)がひとつの帰結へと向かって突き進む。

イレギュラーに見えることもこの道においては確かな意味を持つ。

また一歩前進することを選べば、その先の状況も変わり、
ためらえばそれもまたライフに反映される。
レッスンとはそういうことだ。

ライフの中で愛を学ぶとは、死に後押しされて歩むということだ。
しかしいずれそれは愛による学びへと至る。
聖霊の翼に乗って飛ぶためにはどうしても愛が必要なのだ。

この愛を偶然によって学ぶことはほとんど期待できない。
偶然によって学ぶことは、私たちの道の何倍も困難な道だ。


(私たちの道は)彼が見ておられる。

この道は愛を学ぶ道だ。
与えられたライフを通して。

愛すべき道だ。
素敵な道だと思う。

聖霊の翼に乗って駆け上がれなくても、
どんなに時間が掛かっても、
彼から与えられたこの道を歩む。

ただ皆ライフを生きるということ。愛するということ。
マインドはこれまでどおり邪魔し続けるということ。
(ただし、決定的な決断がなされた後には、マインドの状態すらも、導きの中のレッスンへと変容する。)

いっぱいいっぱい・・・・泣かなくっちゃならんこともあるということ。

これらを引き受けて歩むということ。

私(おぞうたま)は知っている。ライフには秘密があるということを。

時間の終わりに立てばすべてが愛おしいということだ。

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私は与えられたライフの中で、自分自身に何度も問いかけ続けます。
「私は今、光の方に向かっているだろうか?」