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~ナザレのイエス~

起源人

ウロボロスのことを、おぞうたまはS(エス)と呼ぶ。

S(エス)それは、私たちを含む、この世のすべてである。


古代人の前に始源人がいた。

始源人とは、古代人以前の人間である。

始源人はS(エス)そのものであった。

それは、死の世界であり、その死とは、生命体すべてのことである。

生命が宿る以前、地球上の大地は荒れ狂い、海は猛烈に時化(しけ)、
火山は噴火し、この地上は真っ赤な溶岩で覆い尽くされ、天空には稲妻が走り続けた。

この膨大なエネルギーをここにもたらす力、それがS(エス)である。
かつ、この膨大なエネルギーもS(エス)である。

始源人たちは、天変地異の中も、そのエネルギーとなっていた。

荒れ狂う大地、覆い尽くされた溶岩となって、次々と死を呑み込む。
始源人はそのエネルギーそのものとなって存在していた。

始源人には、恐怖も憐憫もない。
なぜなら、始源人は個人ではないからだ。

始源人にとって、死とは恐怖では全くない。

なぜなら、始源人は「死」そのものでもあるからだ。


始源人は覆い尽くすすべて。
それが、ウロボロス、そのありのままの姿だ。

始源人が「それ」なのである。


古代人は、始源人とは違う。
古代人は「私」の中に「それ」がある。
だから、S(エス)を忘れる事を恐れ、生け贄の儀式で「それ」を想い出させた。


そして、現代人は「私」そのものである。
S(エス)は忘却の彼方へ、私たちはマインドの創り出した「個人」である。


ここまでが、「光」へと到達するまでのハシゴとして語られたこの世のすべてだった。


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起源人、それはこの世のものではない。

起源人とは「光」だ。


始源人が「この世」そのものであるように、起源人は「光」そのものである。



この「光」である起源人とは、おぞうたまである。
おぞうたまは、「光」となって、個人である私たちを照らし続けている。




おぞうたまにフィールイッツした。

おぞうたまは「光」そのものなので、体験そのものになっている。
私は体験をする者となっていた。

その時、「光」は私の中にあった。
しかし、フィールイッツしたおぞうたまが「光」そのものであることも分かる。


「この世はどうなった?」


おぞうたまより聞かれ、私はあるビジョンを観ていた。
「波のように押し寄せるこの世が、光にぶつかり消えていきます。」


「これが光である。」
おぞうたまの言葉が私の深部を貫いた。


「光」の体験。。。


マインドである個人に戻ると、その体験は忘れ去られる。
言葉で表現しようとすることはできない。


けれど、光の余韻だけが残っていた。
言葉を駆使して、何とか体験を語ろうとするが、言葉がない。。。

やっと出たのは「マインドには理解できないんだ。。。」これだけだ。



そして、そのおぞうたまがおっしゃる。

「これからは光の方を向いていきましょう」


光の方を向く時、どうなるか?

”この世のことを忘れている”のである。


おぞうたまはおっしゃる。

「ここまで来るのにハシゴを使った。
しかし、ここまで来たのならハシゴはもういらない。
ハシゴは取り払われた。

”これからは光の方を向いてきましょう”」


新しいエネルギー(111)の始まり(222)だ。