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~ナザレのイエス~

手綱とムチ

チイちゃんが今ある姿で私たちの前に現れている。


余命を思うその小さな命を前に、私は非力だ。


光なくば、ここは無・意味である。


いずれすべてが消える。
そこにドラマを乗せ、意義を見いだしても、すべては消える。

 


超努力


ピーちゃんに寄り添い、最後まで貫き通したその意志は、
おぞうたまの行為として現れた愛を通して、この光の道を生み出してくださった。

行為として現れた愛、それが超努力。


人は今の生活に満足していなくとも、現状の快適さ、セーフティーゾーンを維持しようとする。
このライフスタイルを変えようとしない、現状維持のマインドに引きずられる。


おぞうたまは、ピーちゃんに合わせ、生活のすべてを変えた。

睡眠を極限まで削り、身体の痛みも投げ打った過酷な日々を、
ピーが生きていてくれるのなら、これがもう100年続いても構わないと真に思うほどに愛を昇華された。

愛とは、行為として現れる愛だ。愛の強さの証は行動に現れる。


超努力。。。

おぞうたまのことは一例であり、人それぞれに超努力はカルマとして与えられている。

まずは行動として現れる愛が育まれなければならない。
愛とは観念ではない。

この超努力に裏付けされた愛がなければ、憂いもなく、救済を求めることはない。
この道を歩むことはできない。

 

ピーちゃんが亡くなって3ヶ月経った。


この3ヶ月間。
サインは、私たち、道を歩む者へ送られ続けている。
どれほどのサインが私たちの前に現れたのか。


サインだ、サインだといくら口が語ったとしても、私たちはサインとして受け止めない。
だからサインが頻発し続けなければならない。。。


おそうたまにたまらず聞いた。
「どうしたら、チイちゃんは助かるのですか?」

「サインとしてキチッと受け止めたら、このサインはもう要らなくなるからチイちゃんは助かる。望みはある、ということだ。

たとえ、亡くなったとしても、死の意味が変わる。
ぼくらが光の中を走り続けるかぎり、すべてが夢のように感じられるのだ。」


言葉で書いたが、これをマインドが読むとおかしな感じがするかもしれない。
夢のように感じられることは決して逃避ではない。

事実であることを私は直感した。

 

そして、おぞうたまの言葉を聞いた瞬間に、

受け止めるのは、『命がかかっていること』ではなく、
『サインとして受け止めること』だったのだと理解した。

 

そして、光がこの地を覆うこと、神の国の到来こそが、私たちの進む道であることがハッキリした。

なぜなら、サインとして受け止めることは、光がこの地上を覆っていることを見いだしているからだ。


おぞうたまはおっしゃる。


「もし光がないのなら、出来事はただの出来事だ。
ただ災難があり、ただ幸福があり、ただ生活がある。


今、光があるからサインが出ている。サインがサインとして現れるのだ。


けれど、私たちはサインをサインとして受け止めていない。

サインをサインとして受け止めなければ、それは続く。
それでも受け止めないとすれば・・・いつしかサインは起きなくなる。」

 

おぞうたまは続けて、手綱とムチの話をしてくださった。
比喩として語ってくださったことである。

「私たちは馬である。時折打たれるムチは、神がもたらしたショック(サイン)である。
馬は今、ムチで打たれてもどこに行けばいいのか、右往左往している。手綱がないからだ。

しかし、ナザレのイエスさまが騎手として手綱を握り、私たちと繋がるのなら、
彼は私たちを光へと導いてくださる。

私たちはサインをしっかりとサインとして受け止め、イエスさまと繋がらなくてはならない。

その時、光へとまっすぐに進む。

手綱(たづな)は、絆(きずな)である。イエスさまと絆を持つことこそが大事なのだ。


生活の只中も光と共に在る時、生活の質が変わる。
それぞれに与えられたカルマによってそれぞれの生活があることも、
光と共に歩むのなら、すべてが夢のように感じられる。」


おぞうたまが語るすべては、事実だ。

何が事実であるとの直感をもたらすのかは分からない。

けれど、マインドが語ることを信じなくなりつつある今、
私に必要なことはすべてイエスさまが指揮しておられることほど、力強いことはない。

 

おぞうたまの言葉です。


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愛が在る時、ぼくらは運命の不正に耐えることができない。
運不運などという言葉で気を紛らわすのは、愛の無い傍観者のすることだ。

広島の豪雨の被害を見よ。
この世が何をしたか、両の目で見よ。
愛が無ければ嘆きもない。

だが悲しみは深く地中を下り流れ、いずれ足元の大地を陥落させるだろう。


ああ、それは、神の鞭なのだ。
神が衝撃を与える時、ぼくらは神の手綱で彼としっかり結ばれている。

彼は騎手だ。
彼が騎手である時、大地は一変する。

光がぼくらの世界を隈なく覆い尽くしているのだ。
さもなければ、ぼくらはどこにも行く当てがない。

 

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サインがサインではなくなる前に、偶然の不幸だけがこの地上に残る前に、
私たちが全員光の方を向くことができますように。。。