大いなる神秘
まず、はじめに。。。
「死・我は来てはならない。『あなた』が来なくてはならない。」
おぞうたまがあのお方さんに語られた言葉です。
「この『あなた』は、ナザレのイエスさまに向けて身を捧げている者、
呼びかけられる者、彼の羊のことである。」
そう、おぞうたまよりお聴きしました。
ナザレのイエスさまのおっしゃる
~あなた~
この言葉の響きに、身も心も預け、すべてのすべて、全身全霊をナザレのイエスさまに捧げます。
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ナザレのイエスさまの母、マリアの話をおぞうたまからお聴きしてからというもの、
彼女に触れようとすると涙が止まらなくなっていた。
おぞうたまからお聴きしたのはこれだけ。
「マリアは15歳でイエスさまを産み、イエスさまは33歳で亡くなった。
マリアは48歳で最愛の息子を亡くした。
数々の奇跡を起こし、弟子たちから尊敬され崇められた息子を亡くした。
その時の彼女の気持ちが分かるだろうか?」
それを聴いた途端、彼女の波動が伝わり、何もかもが止まった。
一言も言葉を発せられなくなった。
何かが私を打ったのだ。それは衝撃だった。
おぞうたまは、「グノーシス(霊知)が流れ込んできた。
衝撃が認識であり、それは経験だ。」とおっしゃられた。
私には何が起こったのか分からなかった。
その後、我に返ったかのように、一気に入った情報を理解しようと頭が動き出した。
48歳、今の私と同じ歳。想像してみた。
今の私が愛する我が子の死、
それもイエスさまのようなお方の死を受け入れる事ができることだろうか?
もちろん、素地が違いすぎる。。。
イエスさまを産み、お育てになられたお方なのだから・・・。
いや、そうだからこそ、彼の死を受け入れられたのか?
頭は考えに考え、何とかその心情を掴もうとするが、一向に掴めない。
その時、おぞうたまはおっしゃられた。
「彼女は大いなる神秘だ。」
まさに、まさに神秘だ。。。もう他に言葉はなかった。
彼女の、その秘められた強さは、いったい何なんだ?!
目が覚めるようなショック。
私はすっかり彼女に魅せられてしまった。
しかしその後、家に帰ってからは、
彼女に触れることができず、何故だか彼女を想うと涙が止まらなくなってしまった。
このことをおぞうたまに話し、再びセッションにて彼女に触れる幸運がもたらされた。
ミケランジェロのピエタ。
マリアが十字架刑で亡くなったイエスさまを両手を大きく広げ抱きかかえる像。
慈悲の象徴でもあられるお方。
それを見て、彼女の人間としての器量の大きさを推し量ることはできる。
けれど、マリアはそれだけじゃない。
すべてを知っておられ、すべてを受け入れておられる。
途方もない受け皿、器。
ナザレのイエスさまを、黄金を、産み出すことができるお方。
わずか15歳にして「フィアット:そうであるように。。。」と天からのお告げを受け入れ、望まれたお方。
準備は15歳にして整えられていたのだ。
彼女は人間ではない!
姿は人間であっても、すでに15歳にして神をこの地に受け入れる全存在となったお方。
彼女は時間を超え、全領域に存在したのだ。
あぁ、なんてお方なんだ!!!
彼女を想う気持ちは一気に膨れ上がり、彼女を求め、懇願した。
「マリアさま、あなたを知りたいのです!」
体験が与えられた。
彼女の偉大さ、包容力の無限さ、どれほどの痛みも苦しみも悲しみも、
彼女はすべて包含しておられる。
ナザレのイエスさまの十字架刑を目の当たりにした経験は、
彼女を人間マリアからこの地上すべての存在へと果てしなく大きく変えた。
「彼女はすべてを呑み込む谷間だ。朝日はそこから登る。」
おぞうたまが彼女の存在をそう喩えてくださった。
まさに稲妻が走り、竜巻が吹き荒れ、大雨が冷たく叩きつける混沌。
彼女の経験は、それと同等、いやそれ以上ではなかっただろうか?!
彼女はそのすべてを身に受け入れ、呑み込まれた。
ナザレのイエスさまの亡骸を両手に抱え、そのすべてを受け入れ、留まり続けた彼女の存在を、
私は余りにも眩しすぎて直視することができない。
涙で溢れかえる私が知覚したもの。
それは、彼女はイエスさまを身ごもることを望んだ時にはもう、
このすべてを知っておられたに違いない。という思いだった。
彼女はなるべくして、なっておられた。
フィアット、そうであるように。。。それそのものが彼女だ。
この私はどれだけ彼女を知っているというのだろうか?
あの偉大な、女性性のすべてを併せ持つお方を。。。
偉大なのは彼女だからではない。
彼女は偉大な何かを知っておられ、それになられたのだ。
女性性の強靭な精神は、彼女のあのような姿で現れ、
ナザレのイエスさまの偉業は、彼女の器の元に達せられた。
「光はそれを入れる器がなくてはならない。」
おぞうたまの言葉を噛み締めるように聴き入る。。。
彼女なくしては、ナザレのイエスさまをこの地上にもたらすこと叶わず、
その母胎は、彼女を通して存在したのだ。
慈悲とは、すべてを受け入れ優しく包み込む。
すべてを呑み込み、朗らかに光へと溶かす。
彼女はすべてを生みだす基盤、まさに母胎だ。
女性性の神秘。
彼女は、事実、存在した。
天上のマリア。。。。
それは、今も在る。
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おぞうたま私信(4/23火)より
全体とは、極まるところ、彼そのものだ。
それはイエスさまの愛が循環し、満ち満ちている彼の体であり、
その名をエクレーシア(教会)という。
エクレーシアは、断片化した個人(私)の集合体(現在の第二ライン)ではない。
しかし、それはすでに在る。
たとえ、現世の私には、認識外の抽象に思われ、なんらリアリティを持てずとも、
エクレーシアは彼のもとに実在しているのだ。それは、彼の羊の群れであり、囲いだ。
イエスさまは、彼の羊を親しく知っておられる。
その名前をすべてご存知で、この世に浮き沈みしている今の我々に対しても常に呼びかけている。
彼の呼び声を聴く者は、彼に従う。
この美しき愛のささやきに、躍動せる力強い叫びに抗う者はいない。
ただサタンがそれを聴くことを阻むだけである。
下界の私たちには、エクレーシアは大いなる神秘だ。
しかし、多くの者には数ある宗教的概念の一つに過ぎぬ。
つまり神秘はおろか、その言葉に生きた意味を予感することすら出来ない。
それは、叡智が未だ発達していないからだ。
しかし、ひとたび、この世に降りてきた彼の呼び声を聴き、
二たび、三たびと、日々コミュニオンを感じる中で、叡智は、時を経て成熟していくのである。
それは『美』の極限(彼ー神)を、彼から与えられた愛のただ中を通って、
あたかも遠き恋人を昼夜分かたず、恋い慕う性愛の激しさで求め、
ついには、一つに結ばれるまで止むことのない情熱へと高まりゆくその時、
第二ラインは、彼の体の一部(子宮)になる。
書けば長くなる。伝えたいことは山ほどある。
だが、これくらいにしよう。
言葉を連ねるほど“大事なこと”が薄らぎ遠のいてしまうことがあるからだ。
だからわたしは語る代わりに『あなた』に問おう。
OPとは誰のためのものかと。
わたしの愛(火炎)がわたしを求める『あなた』を呑み尽くすように。(ナザレのイエス)